2013年最初の読書。

あけましておめでとうございます。今年最初の読書は、新年1月に放送されるNHK教育テレビの番組『100分de名著』のテキスト『般若心経_「見えない力」を味方にする』。著者の佐々木閑先生(花園大学)には数年前、オデッセイコミュニケーションズで出していた「オデッセイマガジン」の巻頭対談でお会いいただきました。「日々是修行_現代人のための仏教100話」(ちくま新書)以来の先生のファンです。

「般若心経」は釈迦が唱えた仏教とは異なる大乗仏教のメッセージであること、般若心経の最大の特徴は神秘であること。先生は「はじめに」で、「日本で一番人気のお経の新しい見方」を示したいとされています。

先生のご説明に、般若心経のファンの人たちがどのように反応するのかわかりませんが、佐々木先生の以下のようなメッセージを味わい、もう一度、このテキストを読み返そうと思っています。

「大なり小なり、合理的な論理性をもって判断すべきことがらは、意志でしっかり判断します。そして、判断したことに対して自信を持って進んでいくためには、いわば”後押し”として、神秘の力を求めるということです。私はこういった生き方が一番、人生の苦しみを軽減してくれるのではないかと考えています。」

2013年が平和な一年でありますように!

『なぜあなたは、間違った人を採ってしまったのか?』(佐藤文男著)

以前も著者の本をご紹介したことがありますが、著者は僕の大学時代からの知人です。本を出すたびに、わざわざ届けてくれるマメな人です。なので、僕のコメントは、決して客観的な立場の人間のものではないということを事前に書いておきます。

他人事ではないのですが、すべての会社、そう、すべての会社において、人に関わる問題や課題をかかえていないところは、ひとつとしてないのではないかと思います。いや、「思います」というよりも、確信しています。優秀な人間が集まっているということになっている霞ヶ関の中央官庁から始まって、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長している会社、伝統ある高値安定の有名企業も含めて。人が集まるところには、人に関わる問題、課題がないところは絶対にない。

なので、著者のような人材ビジネスのベテランがこのような本を出す意味があるのだろうと思います。アマゾンの読者のコメントを見ると、同意せざるを得ない厳しい指摘もあるのですが、この本が取り上げている、「どのような人材を採るべきか、どのような人材は絶対に避けるべきか。もしできない人を採用してしまったならば、どのような対応をしていけばいいのか」というテーマは、非常に難しい課題です。この課題に悩んでいない会社は皆無だと思います。

著者の基本的な考え方で大きく同意することがふたつあります。一つは、「人間は感情で動く」ということ。もう一つは、「人間は自分の『窓』を通してしか他人を見ることができない」ということ。自分自身の人生観を作り上げていく真剣勝負の繰り返しの結果として、他人を見る眼が養われていくのかと思います。

経済が右上がりだったころは、会社も成長し、今年よりも来年はいい年になるだろうという漠然とした期待がありましたから、年功序列、終身雇用の制度のなか、多少の不満はあったにしろ、いまから思うと、それなりに安定感がありました。その頃は、社会全体がいまよりももうすこしおおらかだったかもしれません。

バブル崩壊後、特に2000年以降、BRICsや韓国、台湾の台頭と反比例するように日本企業の力は沈下してきました。90年代後半には、絶対に倒産しないだろうと思われた大手企業(例えば山一証券、北海道拓殖銀行)が倒産し、今年2012年には、常に日本のトップ企業でありつづけるだろうと信じられてきたパナソニックやシャープといった世界的な家電メーカーが危機的状況に陥っています。

不安定になればなるほど、人間観、歴史観が重要になってくるはずです。

著者のことで感心するのは、自分なりの人間観を作り上げていこうとする意志を持ち、努力を続けていることです。著者の最新刊が、人間観に関わる非常に難しいテーマを取り扱うにあたって、成功しているかどうか、それは読者の判断に任せますが、著者がこれからも真摯な姿勢でこのテーマに取り組み続ける限り、いい仕事を残すことができるのではないかと思います。来年もご活躍になられることをお祈りしています。(数ヶ月前にご本をいただきながら、黒犬通信でご紹介するのが遅れました。ごめんなさい!)

『100の基本_松浦弥太郎のベーシックノート』(マガジンハウス刊)

「オデッセイマガジン」にもでていただいたことがある松浦さんの新刊。友人がいま熱心に読んでいると言って見せてくれたのは、松浦さんの別の本でした。友人にプレゼントしようと思って買った本。

自らの行動原理、自己を律するための100のルールをまとめたものです。以下のようなルールにはとても共感を覚えます。

1「100冊の本を読むよりも、よい本を100回読む。」

2「限界は自分で作らない」

3「財布は雑に扱わない。低いところには置かない」

4「いろいろなジャンルの最高と最低を知る」

5「一年に四度、旬のごちそうをいただく」

6「何があろうとあきらめない」

7「ただのものには近寄らない」(カードのポイントなども含む)

8「家族を大切にする」

9「机の上には何も置かない」

10「階段は一段ずつ上がること」

松浦さんの、静かだけど、うちに秘めた情熱を感じさせるルール。おカネの大切さをきっちりと指摘しているところにも注目。僕がまったくできていないのは、9の「机の上には何も置かない」ということ。これについては反省!

『I DESIGN』石岡瑛子著

社員のYさんから「この本は社長が気に入る本だと思います」と、薦められた本。お借りしたのは、もう半年も前になろうかと思いますが、今週末集中して読み終えました。そしてYさんには、「ええ、本当に面白かったです」と、明日会社でお返ししようと思っています。

石岡さんは、今年の1月、お亡くなりになられています。ウィキペディアをご覧になると、どのような方か、基本的なことはわかります。
また、この本に関しては、石岡さんと交流があった松岡正剛さんが、詳細な紹介をされていますので、そちらもご覧ください。(松岡正剛の千夜千冊

こういう日本女性には脱帽します。この前、東京国際ブックフェアで聴いた瀬戸内寂聴の講演会のことを書きましたが、フリーランスとして活躍する日本女性(企業に属さない作家やデザイナーたちは皆、フリーランス)の声には、男からは聞こえてこない強さ、しなやかさを感じることが多いです。ダイバーシティなんて口にしながらも、あまり変わっているようには見えない政界、財界相手に仕事をしていくことが、いかに大変なことか。彼女たちは大きな声で叫ばなくとも、男尊女卑の日本社会にするどい矢を放っています。

この本で僕が付箋をつけた文章は以下の通り。

「本当のところ、日本とアメリカ、あるいは日本とヨーロッパの関係は、文化のレベルで言えば、深いところでは何も触れあっていないのではないかという感じが強い。最近では、皆簡単にイースト・ミート・ウェストなどという表現を使っているけども、それはただの出会いがあっただけで、メイク・ラブもしていなければ結婚なんてとんでもないし、結婚できるような相手だと、深いところでは認めあっていない。何も一線を越えていない。だからこそ今、憎しみあい、愛しあうような深い触れあいの中から、結びつく何かを創っていかなくてはならないと私は考える。」(P45)

「ポールは『MISHIMA』製作のとき三十代の後半だったが、『自分のエクスキューズをしてはいかない年齢に来た』と言っている」(p47)

「私はこの仕事をやってみてはじめて、日本人は戦後、西洋人に助けられながら今日の繁栄がもたらされたにもかかわらず、自分たちだけでやってきたのだという錯覚と思い上がりを持っていることを知り、びっくりさせられた。そういう意味で、私がこれから将来のことを考えていくうえで、映画『MISHIMA』への参加は実にいい勉強になった。ポールが日本語で映画を創って達成しようとした血の滲むような努力、アメリカ人と日本人が一緒になってポールの夢を実現しようと、汗と涙の努力を惜しまず提供したその結果など、日本の誰も見ようとしなかった、その事実だけが今も重くよどんで残っている」(p50)

「レニ(レニ・リーフェンシュタールのこと)は生きることに最も大切な情熱を三つあげている。自然を敬う情熱、創造への情熱、そして男性への情熱である。この情熱のトライアングルの中心点に位置するのが、人間の肉体とその意志、自然の一部としての人間の肉体とその意志である」(p146)

「私は『忠臣蔵』を、日本という特殊な国の昔の物語として閉じ込めてしまわないようにしたい、現代人である観客に強くフックする何か強いアイディアがほしいと考えていたので、ヴェルナーのオープニングとエンディング案は生々しいけど、料理を上手にすれば絶対にいけると考えていた。その案を採用するかどうかの是非の差は、西洋で創作活動を行っている私と、日本で表現を考えている三枝や島田との大きな違いかもしれないのだ」(p262)

「私は日本人に生まれてほんとうによかったと誇りを持って生きている人間のひとりです。日本の伝統文化は、世界の文化遺産として尊敬を集めているし、世界でも特別にすぐれた文化のひとつだと声を大にして自慢できる文化です。しかし私は、伝統文化を伝えるためのメッセンジャーとしてここに来ているのではないく、ひとりの表現者としての私の価値を、デザインという言語を通して伝えるためにここに来ているのです」(p292)

「何度も書いたことだが、私は日本人であることに誇り(プライド)を持っている。私の誇り(プライド)は昔のサムライに共通しているほど強い。しかし、日本人を売りものにしたくない。だからと言って、西洋人になりたいわけではけっしてない。何々風という見られかたから解放されて、自由になりたいだけだ。評論家たちによって、私をある型にはめられてしまうのが面白くない」(p307)

「現在のように情報が発達してくると、ますます文化は画一化して地域色を失い、面白くなくなるのではと心配する人もいるようだが、私の意見では全く逆さまだ。私の感じるところ、今は地球全体がハイブリッド文化の実験場になってきている。地域色を失うまいと意固地になっている頑な精神を自由に解放させることで、表現の可能性は無限のひろがりを見せていく」(p393)

「はっきり言えることは、これからは、ますます個人のアイデンティティを問われる時代になっていくだろうし、人種を超えて、国を超えて、個人レベルでの価値が出会い、スパークし、溶けあい、新しい価値を生み出していくだろう」(p394)

「私が、自分で自分のデザインが正しい答えになっているかどうかをチェックするときに、マントラのように唱える言葉があります。それは、Timeless, Originality, Revolution の三つです」(p407)

「スポーツに関するビジネスを主とする企業が、デザインに保守的であることによるメリットはあるのだろうか?スポーツとは、革新そのものが主題なのではないだろうか?むしろそこに”最も”という言葉をつけ加えてもいいくらいに」(p426)

以上、ながながといくつかの文章を引用しましたが、「グローバル化」の時代、なぜ日本がずっと停滞したままなのか?それを「考えるヒント」がこの本にはあると思います。

歪狭な国粋主義、保守主義、団体主義が強くなりそうな今の日本で、石岡瑛子の声にもっと多くの人が耳を傾けるべきなのではないか?
われわれ日本人と同じように、感情的で、偏狭な考えに陥りがちの隣の国の人たちにも、是非読んでもらいたいとも思います。

蛇足ですが、ビジネススクールに行っている頃、1985年から86年頃だと思いますが、ハーバード・スクエアの映画館で映画『MISHIMA』が上映されていたことを思い出します。その時逃してしまったこの映画は、日本ではさまざまな理由で上映されていません。本当の意味での表現の自由がまだまだ日本にはないことが恥ずかしいです。

寂聴さん、ありがとう(「恋と革命」に生きよ!)

昨日、松山に用事があって久しぶりに「帰りました」。生まれは高知県ですが、小学校から高校まで愛媛県南宇和郡御荘町(現在の愛南町)で育ち、大学のころも、東京から松山経由で帰省していましたので、愛媛、そして松山には「帰る」という感覚です。今回は時間がなかったので、お会いしたい方々にもお目にかかることができませんでした。

それというのも、今日から始まったブックフェアにでるため。今朝、朝一番の飛行機で松山から羽田に「帰り」、到着するとすぐに東京ビックサイトで開催されている東京国際ブックフェアに行きました。お目当ての10時半から始まった瀬戸内寂聴の基調講演を聴くために。

もうこの「おばあちゃん」、すごい!
最初から感動の連続で迂闊にも涙がでてきちゃった。

最近では、東京新聞夕刊に連載された「この道」(青鞜や大逆事件に関連する女性たちの生き様を紹介するエッセイ)を愛読していましたが、この連載は「烈しい生と美しい死を」というタイトルで新潮社から最近発刊されています。
今日の講演では、この本のことも含めて、ご自身のお仕事のお話がたくさんあったのですが、なんと言っても、最大のメッセージは、「恋と革命」に生きよ、ということでした。出版業の変遷、電子ブックへの期待などのお話はあったのですが、でも、やっぱり、「恋と革命」。

「恋と革命」に生きる。この言葉って、われわれ男性が口にすると、なんとなく様にならない気がする。それって、ボクだけの「照れ」かな?きっとわれわれ男たちは、たとえ「恋と革命」に生きたとしても、決して自らの口から、「俺は恋と革命に生きる(生きた)」と言えない。

でも女性が「恋と革命に生きる」という時、なんとも言えない潔さと、ひたむきさと、大胆さと、強烈な魅力を感じる。

今年の5月で90歳になったという寂聴さん、10時半から始まった講演では11時40分までずっと立ったままでお話になられました。お話の口調もしっかりされていて、ハートも、体も、とても若々しい方でした。ステージに立たれる前の寂聴さんを至近距離で拝見しました。きっともう近くで拝見する機会はないと思いますが、その存在自体がとても「有り難い」ものに思えました。ご本人も、講演の中で、自分はあと2、3年でいなくなるだろう、きっと皆さんとお会いするのは、これが最後だろうと数回おっしゃっていました。

でも、ぜひとも100歳まで健康にお仕事を続けていただきたいと切に願っています。
100歳になっても、「恋と革命に生きなさいよ」って、叱咤激励していてほしい。

ナイチンゲールと統計学、そして「権力の病理」

午後に都内のある大学の先生(統計学)を訪問。先生からひとつ勉強になることを教えていただいた。クリミア戦争で兵士たちの看護にあたり、「白衣の天使」としてのイメージしか持っていなかったナイチンゲールが、実は、統計学を勉強し、統計学者の協力を得て統計分析をおこなった『英国陸軍の健康,能率及び病院管理に関する諸問題についての覚書』を発表、王立統計学会初の女性会員に迎えられた、バリバリの統計学の徒であったことを。「世界の偉人伝」のひとりとして、小学校あたりで伝記を読んだはずだから、その中で、ナイチンゲールと統計学の話もでていたかもしれませんが、そんなことはまったく覚えてもいませんでした。

ある本の中には、以下のような文章もあるようです。「人間社会をも含めた宇宙は、神の摂理に従って進展していて、この摂理を理解しようと努力し自己の行為を摂理に一致するように導くのが人間の仕事である、と彼女は考えていた。神の本質はあくまで神秘のままであるが、神の意思を理解するには統計を勉強しなくてはならない。なぜなら、統計は神の摂理を測るからである」(『知の統計学2』福井幸男著 共立出版)

「神の意思を知るには統計を勉強しなくてはいけない」。統計学の「広告」として、これ以上のコピーはないのではないかと思います。

それから、今週日曜日(17日)の書評コーナー(朝日新聞)には、「21世紀のシュヴァイツァー」とも呼ばれる医師であり人類学者でもある、ポール・ファーマー(ハーバード大学教授)の「権力の病理_誰が行使し誰が苦しむのか 医療・人権・貧困」(みすず書房)が紹介されていました。かれにはきっといつの日か、ノーベル平和賞が与えられると思うのですが、世界の貧困地域で、三大感染症の治療にあたっています。

この本の紹介文の最後で、評者の渡辺靖は、「日本の論壇などではなかなかお目にかかれない、スケールの大きな、真のリベラルの勇姿を、私は著者のなかに見いだす」と言っています。

ナイチンゲール、ポール・ファーマー、ともに医療に従事し、その分野にとどまらない大きなスケールの仕事を展開している(した)二人。

小林秀雄 on 論語

小林秀雄の発言を発信しているツイッターで、いかのようなことを小林秀雄が書いていたことを知りました。

「古典とは、私達が、回顧の情をもって近づく生きて考えた優れた人間の姿なのであって、分析によって限定する過去の一思想の歴史的構造ではない。従って、古典とは、理解されるものというより、むしろ直覚されるものだ」

昨日の『生きるための「論語」』(安富歩著)の追記として。

『生きるための論語』(安富歩著)

『原発危機と「東大話法」」(明石書店)によって話題になっている著者による「論語」紹介。先輩研究者たちの解釈にとらわれることなく、生きていくための知識として、どのように論語を読み込んでいけばいいかという意図のもとに書かれた「論語」の解説。読み終えたばかりですが、もう一度読み返してみたいと思っています。

論語を非常に権威的に解釈しがちな、学校のお勉強。それからはほど遠いところにあるのが著者の論語解説。孔子の人物像も、謙虚さにあふれ、かつダイナミックに時代を生きた、柔軟性に溢れる人のように思えてきます。

「現代の日本社会が、企業といわず、政府といわず、大学といわず、民間組織といわず、ありとあらゆる組織において、耐え難いほどの閉塞感に苦しんでいるのはなぜか。それは制度の問題でも、仕組みの問題でも、法律の問題でも、慣習の問題でも、文化の問題でも、グローバリゼーションの問題でも、途上国の台頭の問題でも、少子高齢化の問題でも、何でもない、と私には思えるのである。それはひとえに我々の社会が君子を欠いており、経営者が小人によって占められているからであり、「和」が失われて「同」と「盗」とに覆いつくされているからではないだろうか。」

著者がいう「君子」とは、どのような人物なのか、それは本書を読んでみてください。

古典を自らの権威づけに使っている学者や評論家の先生たちからすると、著者の議論は、粗の多いものとして片付けられるのかもしれませんが、僕自身は、「久しく枯渇して歴史文献とされている『論語』を、再び精神的源泉としての古典に蘇らせようとする試み」(北京大学教授・橋本秀美)として評価しています。

ちょうど先月、岩波新書から『論語入門』(井波律子著)がでています。次はこの本を読んでみようと思っていますが、著者は、「『論語』がいずこにおいても色あせない大古典として、長らく読み継がれてきたのは、単に教訓を記した無味乾燥な書物ではなく、読む者の心を揺り動かす迫力と面白さに富むためだと思われる。『論語』の魅力、面白さは、その中心をなす孔子という人物の面白さ、魅力に由来する」と序で書かれています。

そう言えば、井上靖の晩年の大作に『孔子』がありましたね。

扇子にみる日本と韓国

以前、「縮み志向の日本人」という本を、韓国人女性が書いていたように記憶しています。

先週、用事があって韓国に行ったのですが、そのとき、ある場所でもらった扇子をみて、この本のことを思い出しました。というのは、日本の扇子よりもあきらかに大きいからです。アマゾンで「縮み志向の日本人」をチェックしてみると、講談社学術文庫に入っていて、表紙には扇子が使われていました!

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タテにしみても、

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ヨコにしてみても、


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開いてみても、日本の扇子は一回りどころか、ふた回りくらい「縮み志向」になっている。

「35歳から出世する人、しない人」(佐藤文男著)

著者は僕の大学時代の同級生で、ヘッドハンターとして成功しています。いつものことですが、新著を出されるたびに、わざわざ本を持って挨拶に来てくれるマメな人です。ポッドキャスティング「アイデアエクスチェンジ」にもでてもらっています。→アイデアエクスチェンジ「佐藤文男さん編」

以上、著者との個人的な関係があることをお断りしたうえで、ご本を紹介しますが、僕のようにもうとっくの昔に35歳を過ぎてしまった人間でも、まだまだ「出世したい」「出世しないといけない」とプレッシャーを自分にかけている人には、読んで学ぶことが多い本です。

ただ、「出世」と言っても、昔よく言った「立身出世」とは少々意味合いが異なります。著者が問うているように、「自分なりのオリジナルな生き方を目指しているか」「自分なりの美学や信念を持っているか」ということからすると、「出世」がどういうことを意味するのか、それは読者によって違ってくるのではないかと思います。

これら以外で、著者の言葉で共感した点をあげておきます。

1気配りというのは意識して身につけるべき一種のスキルだ。

2「キャリア」の定義は、「他社でも通用する専門性」。他社でも通用するかどうかを考える際には、漠然とした社内の評価ではなく客観的に判断できる数字で表せる実績(成果)を基準にすることがポイント。

3日頃からの整理整頓、清掃が大切。ため込んでいる物を捨てることが、変なこだわりや先入観を捨てることにもつながり、心のリセットができる。

4会社の看板がなくても食べていける人間になれ。

5普段会えない人に会いに行っているか。

以上、著者に対するひいき目もあるかもしれませんが、若い人たちはもちろんのこと、まだまだ働かないといけない中高年にも役立つアドバイスに満ちた本です。