武田シンポジウム2019

昨日、東大工学部のキャンパス内にある武田先端知ビルであった、「武田シンポジウム2019」に初めてでてみました。
とてもおもしろい講演会で楽しませていただきました。午前の部では、途上国で問題解決のために起業した海外の若い人たちのプレゼンがあり、午後はその人たちを表彰するセッションから始まりました。そのあと、3名の研究者のプレゼンがあったのですが、東北メディカルバンク、宇宙膨張に関するふたつのお話を特に楽しませてもらいました。日ごろあまりなじみのない分野のため、きちんと理解できたわけではありませんが(特に、宇宙膨張!)、理科系の研究者の方たちの話をお聞きするのは嫌いではありません。

このイベントはアドバンテストの創業者の方がお作りになられた財団法人が主催されているイベントのようですが、立派なことを継続されているなと感心しました。
シンポジュウムの案内HPは以下の通り。
武田シンポジウム2019

「真実という鏡」

今日の朝日新聞「ニュースの本棚」のコーナーに、言語学者の田中克彦先生が文章をお書きになっていた。大学時代の好きだった先生の一人。「大学と人文学の伝統」というテーマの文章。人類学の鳥居龍蔵(1870ー1953)と東洋史学の前嶋信次(1903−83)の紹介をされたあと、J.S.ミルが講演(「大学教育について」)でおこなった以下のような趣旨の警告を紹介されている。

「自分自身と自分の家族が裕福になることあるいは出世すること」を「人生最高の目的」とする人たちに大学が占領されないよう、絶えざる警戒が必要である。

そして田中先生は、以下のようなメッセージで文章を終えられている。

「今の日本の政治を担う人たちは、かつて大学生であったとしても、大学が学生に与えるべき最も大切な経験ー真実という鏡の前で自らの精神のくもりに気づくという知的・心的経験を一度として味わわなかったのであろう。だからこそ、もうからない人文学を大学から追放しようという、先人の築いた日本の伝統を破壊へと導きかねない発想が表れるのであろう。」

時として「真実という鏡」の前に立つことを必要とするのは大学生だけじゃない。

エルンスト・エンゲル

久しぶりの札幌。そして7、8年ぶりの帯広。
昨日、7時半の羽田発で札幌へ。今朝、8時1分発のJR北海道で札幌から帯広へ移動、16時帯広発の便で羽田へ。
札幌、帯広ではともに取引先の方々と食事会を行い、札幌ではお客さんである北海学園大学の先生を訪問。
北海学園大学で偶然手にした経済学部の論文集(北海学園大学経済論集大63巻第1号、2015年6月)が面白かった。その中に含まれる『エルンスト・エンゲル,もしくは「脂ぎった下僕」にならない生き方について』太田 和宏著。この論文で、エンゲル係数でのみ馴染んでいたエンゲルが、ビスマルク時代のプロイセン王国の統計局長官で、官庁統計を整備し、統計教育に努めたことを初めて知った。

エンゲルに関する、以下のような著者の評価にとても関心を持った。

「エンゲルが死んだ数字を扱う技術者なのではなく、統計家、教育者、啓蒙主義者などこれまでみてきた諸側面を一人の人格においてみごとに融合した人であり、ヒューマニズムを根底にすえつつ、時の問題に果敢に立ち向かう人だということである」。

エンゲル係数を生んだ人はそういう人だったのかと、この人物へ強い関心を持つことになった。
著者は、この論文以外でもエンゲルのことをお書きになられているようなので、そちらも読んでみたい。

「社会人」って、なに人?

卒業する学生に向かってしばしば発せられる「これからは君も社会人だね」という表現。「お前も、これからは社会人の自覚を持て」なんて言い方もある。社会人って、いったい、なに人なの? a man (or woman) of society?

そもそもすべての人間って、社会的存在のはずなんだけど。一番小さな「社会」である家族から始まって、ほとんどの人間は、学校(すくなくとも義務教育の中学校までは)という「社会」で存在を持つわけだし。

一方学校という空間は、小学校から大学まで、社会に対して閉ざされている印象がある。学内には外部の人間は許可なく立ち入れない。学問的にも、社会の課題を解決していこうという姿勢をもって学問を行っている先生たちは、分野を問わず、少数派だ。(日本人ノーベル化学賞受賞者が、学者たちは、象牙の塔に安住するのではなく、もっと現実社会の課題解決に取組むべきだという趣旨のエッセイを書いていた)

学校は社会から隔離された存在である限り、学生たちはまだ「社会人」ではなく、学校外にでて初めて「社会人」という存在で呼ばれるのも、理屈に合っているのかもしれない。

「イチゴ離れ」と「地育地就」

去年の2月、イチゴ離れという言葉を初めて知ったということを書きました。(「野イチゴの季節(7月初め)、子グマが夢中で野イチゴを食べているうちに親グマがそっと姿を消す。子グマがふとわれに返って周りを見回しても、そこには親グマの姿はない。いつか必ず来る親離れ、子離れ。そんな熊の親子の別れを東北の人たちは、イチゴ離れと呼ぶそうです。親子の切ない別れを、なんて素敵な言葉で表現しているのかと思いました。(「ゆずりはの詩」田中陽子著)」→2010年2月24日の黒犬通信

最近、ある県の専門学校が出している広告の中で、「地育地就」という言葉を知りました。「地元で教育を受け、地元で就職する」というような意味でしょうか。

少子化の時代、子供を手元に置いておきたい、いつまでも子供と友達みたいな関係でいたい、ずっと同じ家でいっしょにいたい。そんな親が増えていると聞きます。また地元で就職したいという大学生が増えているとも聞くのですが、それって、本音なのでしょうか?田舎から脱出したかった自分にはちょっと理解できないのですが。

イチゴ離れを経験していくクマの親子たちが、とてもせつなく、またいとおしく思えてきます。

そうじとオーガナイザー

 日本の学校ではそうじが非常に大切な教育活動のひとつと考えられているのに対して、アメリカでは生徒がそうじをすることはそれほど大切だと思われていないような印象があるのだけど、どうなんだろうか?僕が1976年から一年通ったアイオワ州の高校(田舎町の普通の公立高校)では生徒はまったく掃除なんてしなかった。ジャニターと呼ばれる掃除担当の人たちがいた。それに対して、愛媛県の公立高校ではさんざん掃除をやった記憶がある。

 ある知り合いのメルマガのおススメで『なぜ「そうじ」をすると人生が変わるのか?』(ダイヤモンド社刊)という本を読んだ。そうじを無心におこなっていると、予想もしなかったような結果になることがあるというお話。

 確かにそうじは大切だと思う。心の乱れを防ぐためにも、整理整頓、日頃のそうじは大切だと思う。遅刻の多い職場や整理整頓ができていない汚い職場は、だめな職場だと想像できる。

 日本は教育現場や職場で非常にそうじを重視する傾向があると思う。ある意味、修行というか、人間修養の意味さえもそうじに持たせている。お寺などでの修行から派生しているのだろうか。それに対してアメリカでは、そうじと人間修養を関連させる見方はあるのだろうか?アイオワではホストファミリーといっしょに教会に通ったけど、そうじをやった記憶はない。

 今、仏教はアメリカで急速に広まっていると聞く。100年後には、アメリカ人が仏教に則った学校を作り、そこではそうじをすることが大切な科目とされるかも。そんなことになったら面白いと思う。

 アメリカで感心するのは、広義での「オーガナイザー」の存在の大きさ。スケジュール管理、名刺管理、行動管理、顧客管理に関して、ものすごく関心を持っていて、合理的、効率的な管理方法を、これでもかというくらい、多くの人たちが提唱、提案しているなと思う。パソコンのソフトでもさまざまなものがでている。

 この10年くらい、日本でもいろいろな人が手帳を公開したり、提案したりしている。僕の思い過ごしかもしれないけど、日本社会の中でそうじをうるさく言う人が減って、なんとなく「オーガナイザー」が頭をもたげているような気もする。

 僕としては、そうじもオーガナイザーも両方きちんとやりたいと思っているけど、自慢できるほどできていない。

教科書は難しくあるべき?!Learning difficulties

The Economist誌におもしろい記事があった。それは読んで簡単にわからない文章こそ、記憶に残りやすいという話。「教育のパラドックスは、情報を学びやすいように提供することによって逆の結果になることだ。多くの研究によると、人は一生懸命考えさせられることによって、しっかりと覚えるようになる」。

日本の教育はまさにこれと逆の方向に行っているかもしれない。多くの大学は「サービス業」と自己定義し、お客さんである「学生さん」たちに、どうやって「ご理解」いただくかに、心を砕いているからだ。

かつて小林秀雄が、「自分の文章は難しく書かれている。読者は行ったり来たりしながら同じ文章を読まないといけない。だから読者は一冊の本をくり返し読むことになり、得をするのだ」というようなことを書いていたことを記憶している。

Read an interesting article in the Economist magazine. The article says: "A pradadox of education is that presenting information in a way that looks easy to learn often has the opposite effect.  Numerous studies have demonstrated that when people are forcexd to think hard about what they are shown they remember it better." 

The article reminded me of what a well-known japanese author said about his writings. Hideo Kobayashi wrote (somewhere I do not remember, because I read it maybe 30 years ago!) that his readers get more "benefits" from his books because his sentences are hard to understand and the readers end up reading the same sentences repeatedly.

Learning difficulties

立場を代えてみる訓練。

 アメリカの高校で学んだ事の一つに、立場を代えてみる訓練の有効性があります。アメリカのアイオワ州にある、本当に片田舎の高校ですが、社会科の授業で「国連ごっこ」をやったことがあり、非常にいい経験だったと思います。あなたはアメリカ、あなたはソ連、あなたは中国、あなたは日本というように、それぞれの国の立場に立って、あるテーマについて、自分たちが正しいと思う事を主張して議論するということをやってみましょう、というような授業でした。
 
 日本の学校に通ったときには、大学においてさえも、このような「訓練」「体験」はなかったように記憶しています。
 
 なんでこんなことを書くかというと、たとえば今、中国と係争になっている尖閣諸島のことひとつとっても、われわれ日本人の間で、日本の立場と中国の立場にたつ二つのチームを作り、自分の立場を主張するための調査をし、一旦主張をまとめ、そして二つのチームが議論し合ってみる、ということがいい訓練になると思うからです。自分を客観的に見つめ、また相手がどういう背景、理由から主張しているのかを理解する(必ずしも受け入れる、同意するとは異なる)ということは問題解決の第一歩になります。
 その際、目的はなにか、なには避けたいのか、そういうこともチーム間で議論することが、一定のルールの中で、建設的に議論を進めていくという意味で重要かと思います。対立し合う二つのチームが、たとえ目的では一致できなかったとしても、共通して避けたいこと(例:核戦争)があるのであれば、それは建設的な結果への一里塚となるはずです。

 思えば、日本の教育においては、このような訓練が非常に不足しているのではないでしょうか。「相手の立場に立って考えなさい」という道徳的なメッセージはよく聞きますが、ディベートとしての訓練はまったく足りていないでしょう。

 今回の中国との問題に関して言えば、マスコミ各社の報道姿勢や意見には、それほど大差がないようにも見えました。それはもしかして、(日露戦争の戦勝の成果への不満から起こった)日比谷焼き討ち事件につながるマスコミの感情的報道、太平洋戦争につながる新聞各紙の御用新聞化など、意見の多様性に乏しい日本を表しています。
 だからこそ、立場を代えてみる訓練は、個々人(個別の国家)の利益というだけでなく、個々人がその上に立っている全体の利益を守るという意味からも、非常に重要な事だと思います。

PCの枠から人間を解放する。

「デジタル時代の教育を考える」(9月4日)に出席した方が、国立情報学研究所の新井紀子さんの発言として、以下のようなことを記されていた。

 「PCを作ったのは人間なのに、PCで学ぶことで人間がPCの枠を超えられなくなるのは問題。PCの枠の中で子どもを学ばせないことが重要」「PCでできないことが何なのかを認識させることも重要」

(「出版月報・2010年9月号」のコラムより)

 まったく同感。教育ということに限らず、人間の活動という意味では、PCにケータイも付け加えたほうがいい。PCやケータイを作ったのは人間なのに、PCやケータイの枠の中だけで生きようとするのは大間違い。もっとも問題だと思うのは、子どもたちをケータイ中毒にして、気がつかないうちに毎月1万も2万も払わせている大人たち。彼らの罪が一番大きい。

桑田真澄の「野球を好きになる七つの道」(朝日新聞から)

半年ほど前だったでしょうか、とある昼食会で桑田さんのお話を拝聴する機会があり、その際、「試練」と書かれた色紙をいただきました。非常に真摯な内容のお話で感心しました。
昨日の朝日新聞朝刊のオピニオンページに、「球児たちへ_野球を好きになる七つの道」というたいへんすばらしい内容のインタビュー記事がありました。桑田さんの合理的な考えと科学的なアプローチに基づいた非常に共感できる提案でした。以下、簡単に七つの道をリストアップしておきます。

1練習時間を減らそう
2ダッシュは全力10本(体力と集中力には限界がある)
3どんどんミスしよう(ミスした選手を怒鳴りつける指導者はだめだ)
4勝利ばかり追わない 
5勉強や遊びを大切に(練習時間を短縮して、勉強や遊びにあてる)
6米国を手本にしない(野球に関しては、アメリカの野球は拝金主義がはびこっている)
7その大声、無駄では?(ヤジは日本野球の欠点)

最後にこのようにご自身の希望を話されています。「ぼくは新しい野球道の根幹にスポーツマンシップを置きたい。野球を通じて人間性を磨き、技術だけでなく精神的にも自分自身を成長させていく。そういった考え方を持ちながら、みなさんには野球を長く続けて欲しいと思っています。」

繰り返しになりますが、桑田さんの合理的精神と科学的なアプローチに、僕は非常に共感を持っています。