本末転倒のお話し

 マイクロソフトオフィスの資格試験を始めた頃、営業先の専門学校などで、「今いる教員が、ワードを教えることができないので、当面、国内ワープロの検定試験をやらざるをえない」という声を聞いて、あきれたことがあります。先生がワードを勉強され、ワードの試験対策を教えられるようになればいい話しなのに、学校側が、担当教師にそれが言えない、強制できないということでした。同じようなレベルの話しを今週聞いて、残念に思っています。

「生徒が勉強しない、その結果、検定試験に受からない。だから、あまり勉強しなくても、受かる検定試験に替えることにする。」

 こんなバカな議論をやっていていいのでしょうか?!教育現場のレベルが低下しているとよく言われますが、学生に勉強させない学校、入学させ、授業料さえもらえば、あとはどうでもいい学校。ちょっと古い言い方になりますが、学生の本分は学業で、それをやらせるのが、教師であり、学校であります。もちろん、入学する学生の学力低下のため、先生方の負担が増えていることは理解しています。でも、このままでは、倒産する学校が増えてくるのは、ある意味、当然の結果かと思います。

独創的なアイディアを出すためには

夜は、北京五輪アジア地区最終予選「日本対サウジアラビア」戦を、社員のひとたちと観戦。何度もチャンスがありながら0-0のドローで、ストレスがたまる試合でした。体も冷え、サッカー観戦には寒い夜。

ところで、『自由に生きるとはどういうことかー戦後日本社会論』(ちくま新書)の中で、「独創的なアイディア」の作り方をめぐって、日米で対称的な反応が紹介されています。日本人の多く(58.2%)が、「一人のほうが独創的なアイディアを思いつきやすい」としているのに対して、アメリカ人の多くは、「集団のほうが独創的なアイディアを思いつきやすい」(48.6%)、「集団のみ」(33.6%)としていることです。(資料:川久保美智子) 意外でもありますが、日本人が、力を合わせながらシステマチックな仕事の進め方を行なうことを、小さい頃に学んでいないということを表しているのではないかと思います。こんなところにも、日本の受験中心の勉強の弊害がでていると僕は推察しています。

高校留学を認めない教師のエゴ

僕の人生で一番よかったことのひとつは、高校生の時に、アメリカに1年間行かせもらったことだと書いたことがあります。だから、こんな記事を読むと、怒りで一杯になります。

11月17日の産経新聞一面のシリーズ「やばいぞ日本」のなかで、四国のある名門進学校の教頭が、「うちでは留学を認めていない」と冷たく言い放った、とありました。その理由は、東大合格者を一人でも減らしたくないという学校側の都合のためだったとか。

あーあ、バカみたい!たかが大学に入るのが1年遅れたとしても、東大に入れなかったとしても、それがどうしたの?!

僕も個人的にお付き合いがあるAFS日本協会の大山事務局長がこの記事のなかで言われているけど、「東大を頂点とする日本の受験戦争」に問題があるとしたら、本当に情けない話し。

僕の同期でも優秀な人は日本に帰っても、浪人なんてすることなく東大に入っている人、結構いますよ。

学校の先生方には是非見聞を広めていただきたい。だって、有名大学でたって、生き生きと仕事のできていない方々、たくさんいますから。教員の視野の狭さでもって、子供の可能性を摘み取ってしまうようなことはして欲しくない。物事、すべてプラスとマイナスの面があるから、高校留学だって、決して、すべてプラスとは言いませんし、事故や事件だってあります。でも、それを言っていたら、なにも可能性は広がっていかないはず。すべてのことにはリスクがあるわけだから。

僕はAFSを応援しているので、こんな記事を読むととても残念です。

教育の目的

今年で6回目になるIT-EIを、丸ビルで開催。詳細は、IT-EIのHPに後日発表させていただきます。

ご講演いただいた皆さんのお話をお聞きしながら、(情報教育だけでなく)すべての教育の目的ってなんなのか、って考え込んでしまいました。ここで「教育の目的」なんて難しい話に、答えが出せるわけではないのですが、僕が考えるいくつかの目的。

1 個人が、精神的にも、物質的にも、豊かな人生を送ることができるための教育。

2 個人を「自由」にしていくれる教育。(英語でいうLiberal Arts=リベラル・アーツというのは、まさに個人を啓蒙し、偏見や囚われからの自由を目指したものだと思います) 

3 将来生きていく=仕事をしていく、そのための教育。

国の立場からすると、すぐに「責任を果たす国民」なんてことになるのでしょうが、国民のために国があるということを同様に強調して欲しい。国からそんなこと、聞いたことあります?!

文科省も含めたすべての学校関係者のコミュニティは、かなり閉ざされたものになっていて、ダイナミックに変化している世界、特に経済界のことを、どれだけ理解されているのか、とても不安になります。富を創造していくことが、国力の基本だと僕は強く信じています。新しい産業を産み出す力、そんな教育であってほしいです。

黒犬の世界には、大学入試はない!

昨日、異なる二人の方から、20年前の東大の入試問題に出ていたようなレベルの問題を、昨今の塾などでは、小学生や中学生に与えていると聞いて、本当に驚きました。有名中学、高校にいれるために、塾と一緒になって子供にそんな勉強を強いているのは、ある意味で、親の暴力なのではないかとさえ、感じました。そんなにしていい大学に入っても、4年間、反動でなにも勉強しないんだから、まったく意味ないじゃない?!大学に入ってしっかり勉強するためにも、高校までは大学入試の勉強以外に、もっとやることがあるはずなのに。1年間、アメリカに行くと入試によくないから、高校留学なんてダメだ、という教師も多いとか聞きます。僕はAFSで高校生の時、1年間、アメリカに行かせてもらえたことが、本当にいい経験になったと感謝しています。(それに日米どちらでも、塾や予備校とは縁遠い、田舎のできの悪い高校に通ったし)。

逆に、浪人してまで入りたい日本の学校なんて、東大も含めてですが、ひとつもありませんでした。(絶対に浪人だけはいやだった)

いろいろと都内の教育事情をお聞きしたのですが、日米の小学校レベルの教育方針や教育方法の比較がとてもおもしろかった。日本は、東大を頂点とした大学入試制度を維持していこうとする限り、世界の中での競争から、どんどん落ちていくのだろうと思います。別の友人は、息子さんを、「日本で行ける学校がないので、結局、イギリスの寄宿制の高校に入れたら、本当にのびのびと勉強している」とか。

黒犬の世界には、東大も、サピックスも、そしてハーバードもないから、清々します。

ジョージ・バーナード・ショーが言ったこと

The reasonable man adapts himself to the world, the unreasonable one persists in trying to adapt the world to himself.  Therefore all progress depends on the unreasonable man. 世界を変えていくのは、現状の不合理さを拒絶し続ける人。

「学ぶことの意味」

まだ読んでいなかった古い新聞記事(今年2月)に、「学ぶことの意味を問われて答えることのできる教師は本来いないはずだ。学び終えてはじめてその意味が理解できるのであり、そのことこそ学ぶことの動機づけになるものだから。」(哲学者・内田樹)という発言がありました。

同じ記事の中で、内田さんは、「80年代以降の子供たちが以前と違うのは、消費者として社会的経験をスタートさせたことだ。(中略)彼らは自分たちに理解できる解答以外は受け付けない。消費者マインドで世界に対するときの必然だ。」とも言っています。

義務教育の段階で、教育をサービス業と呼び、子供たちを「お客さん」扱いし始めたときから、多くの勘違いが始まってしまったような気がします。子供や父兄を「お客さん」とするのであれば、彼らは聞きたいことだけを聞くようになります。

もうひとつ、別の話になるのですが、すべての子供は、一度でもいいので、電気も水道もないようなところに投げ込んでみるのもひとつの方法ではないかと思います。生きていく力や意志がなえてしまっている子供が多いようですので。だって、自然の中では、人間はお客さん扱いをしてもらえませんから。不便さの中から、人間って、強くなったり、賢くなったりするように思います。僕は、バンカーズ・トラストで、30歳前後の時ですが、ニューヨーク郊外の、電気も、水道もない森の中で、会社の研修のひとつとして、数日間、グループで「サバイブ」するトレーニングに参加したことがあります。とてもいい体験だったと思っています。

追伸 以前、内田さんの『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)を読みました。