モーニングコールをする教師

 少子化で、日本の人口が減ることは問題だと思っていないのですが、その副産物として、教育現場でこんなことが実際に進行していると聞いて、驚いています。

 どういうことかというと、一部の専門学校や大学で、先生が生徒に「モーニングコール」をしているというのです。遅刻しないように、欠席しないように、先生がここまで面倒を見ているという話です。一体、どうなっているのかと思います。それくらい生徒を「お客さん扱い」しないといけないほど、生徒集めが厳しくなっているという話です。少子化に加え、豊かな時代、ハングリーさがなくなった社会における学校経営の厳しさでしょうか。

 一人や二人から聞いた話ではありません。(現場の先生からも何度かお聞きしましたし、今日昼食をしたリクルート出身の某人材コンサルティング会社社長からもお聞きしました。)

 うちの会社も新卒の募集や第二新卒の採用はしますが、数合わせのために、無理に採用することはありません。でも、大手企業などで、どうしても頭数をそろえないといけない人事部の方たちは、先生から「モーニングコール」をしてもらっていたような学生たちも、採用しないといけないのでしょうか。

すごい時代になったものだと思います。

バウハウス・デッサウ展

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東京芸大の美術館で展示されているバウハウス展を見てきました。上野は久しぶり。20世紀、バウハウスのような総合造形学校が存在したこと自体、ひとつの奇跡のように思えます。

寺脇研著『官僚批判』(講談社刊)

 生涯教育とゆとり教育で有名だった元文部省官僚が、役人時代を振り返った本。以前、ご紹介した高橋洋一さんの『さらば財務省』もそうですが、キャリア官僚として、組織の中でかなりのポジションにまでのぼりつつも、ユニークなキャラクターが故に、組織からはじかれていった元官僚が、部分的とは言え、今の官僚制度を批判する本を書き始めたことを、僕は歓迎しています。
 寺脇さんがマスコミによく出ていたとき、このかたは「ゆとり教育」を積極的に広報されていたように記憶しています。ゆとり教育は、このごろではさんざん批判されています。でも、学力低下も含めた子供を巡るさまざまな問題に関しては、学校教育に頼り切っている親、子供を金儲けとセックスの対象にしてしまっている一部のビジネスと大人たちの自制心のなさが、もっと大きな根本問題としてあるのではないかと思っています。(ケータイ業者は、フィルタリングの問題に関して、イノベーションを阻害するだとか、言論の自由だとか、表現の自由なんて、言っていますが、僕はふざけた戯言だと思います。どうやって株価に影響を与えないようにしようかという下心が、衣の下から、透けてみえます。)

 寺脇さんも、役人時代には言えなかったことを、退官されてからは発言できるようになったのでしょう、次のような文章を書かれています。
「安倍前首相は、『私の内閣』という言葉をしばしば口にしていた。私は、あの言葉を耳にするたび、憤りを禁じ得なかった。総理大臣といえども公務員である以上は国民全体の奉仕者であり、その立場にある人が『私の内閣』などと言っていいはずがない。」
 他省庁との仕事を通じて感じた省によるカルチャーの違い、福岡県、広島県への出向の経験談、率直に語られるご自身の欠点など、おもしろく読ませていただきました。役人時代には、抑えないといけなかった、お持ちの多才さを、自由奔放に、存分に発揮されますように。

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「ゆとり教育」が問題の原因ではない、と思う

 「ゆとり教育」の弊害が言われてきました。でも、ゆとり教育になったから、子供たちの「劣化」が起こるような仕組み、そのものが問題なのでは? つまり、学校での授業時間が何割か減少しただけで、教育が崩壊するようなシステムになっていること、親ごさんたちが、学校に頼り切っていること、そこに問題があると思うのです。学校教育に少々の変化があったとしても、自分の子供の教育には、大きな影響にならないようにしておくこと。学校に全幅の信頼と期待を置くこと自体が、そもそも間違っているのかもしれないということです。

 戦争中、敵国の言葉だから英語は教えないという、本当に愚かで、狭い心持の権力者たちの政策に、国民の多くが影響を受けました。それを見てもわかるとおり、政府の教育政策が、いつも正しいとは到底思えません。政府の政策には、大きな間違いがありうるという想定のもと、自分たちを守っていかないといけないというのが僕の考えです。(教育以外でも、年金問題一つ見ても、あきらかでしょう!)

 戦争中、静かに英語を勉強していた人たちは多数いたのではないかと想像します。その人たちは、自分の信念や希望を信じて、英語を身につけようとしていたはずです。(そして、それは愛国心があるないとは、別のことです)

 今朝の産経新聞朝刊に、曽野綾子さんが書かれているように、「自分で自分を教育しないで誰がしてくれるというのか」。職場でもそう。自分が自分を育てなかったら、一体、誰がやってくれるというのか?!

IT人材育成に関する意見

大学の大先輩で、IT教育に関してのご意見をお持ちの、有賀貞一さんの文章です。高校レベルにおける情報教育に関しても、言及されています。
IT業界の進路

一橋大学×Google

グーグルが、僕の出身大学に Google Apps Education Edition を提供するそうです。→記事

地下資源文明と地上資源文明

日経新聞の「やさしい経済学-21世紀と文明」で池内了先生(総合研究大学院大学)が書かれている『未来世代への責任』がおもしろい。有限の地下資源に頼る文明から、太陽がもたらす地上資源に依存する文明に転換することが、人類が生き延びる鍵となるという考え方。

それを実現していくためにも、教育が重要になる。特に、「科学の考え方や方法を系統的に学び、それが実生活に生きていることを知る教育」。

「タックス・リテラシー」を子どものときから

昨日、金融リテラシーのこととならんで、「タックス・リテラシー」のことをちょっと書いたら、今朝の朝日新聞朝刊の読書コーナーで、元・税調会長、一橋大学の学長もなさった石弘光先生の本(「税制改革の渦中にあって」、「現代税制改革史」)が紹介されています。

 増税は「国民が決めるべき問題」であり、その眼力を子どもの頃から養う租税教育の重要性を、石先生は再三強調されているとか。まさに、「タックス・リテラシー」のこと。

 

理論を知ろうとする努力

 僕自身はどちらかと言うと、感覚的、直感的な傾向の強い人間ですが、そのような僕でさえも、今の日本でしばしば見られる、手間隙のかかる議論や勉強を避け、見てすぐ分かることのみを求める傾向が心配になります。

 われわれが日本で運営している試験で言うと、アプリケーションソフト(たとえば、エクセル)の使い方に関わる試験と、ちょっと理論的な知識を試す試験のふたつに大きく分かれます。ソフトの操作スキルを身につけることは、もちろん、大切なのですが、理論を知ろうとする努力が、一般ユーザーレベルはもちろんのこと、パソコンスクールなどで教えているインストラクターレベルでも、弱いことが気になります。パソコンはいくら使いやすくなったといっても、ある程度仕組みを知っておかないといけない機械ですし、また知る努力をすれば、一般ユーザーでもある程度はわかるもの。PCの組み立てを趣味で行なっている人たちも結構います。(アメリカでは自動車の点検を自分でやる人が結構多く、他人(専門家)任せにしないで、自分で自動車の基礎を知ろうとする人が日本よりも、比率的にかなり高いように思います。僕がアメリカ人に感心することのひとつです。)

 ところが、パソコンスクールで教えていたり、普通の学校で情報教育に関わっている先生方の間で、「操作スキルしか」教えられないという方々の多いことが気になります。さらに言うと、理論的なことを教えることができないので、一般ユーザーに操作スキル以外のPCのおもしろさを伝えられず、結局、一般ユーザーのハードウェアやインターネットの仕組みに関する知識などもなかなか底上げできない。

 親御さんでも、自分の子どもがケータイやPCでなにをやっているのか、よく分かっていない方々が多いと聞きます。そのような親御さんたちには、オデッセイで運営しているIC3などを目指して勉強していただけると、理論的なことの基礎と、操作スキルの両方が身につきますよと、ちょっと宣伝したくなります。

教育は未来への投資

昨日の話(「本末転倒」)に関連する話です。

人間は、個人レベル、企業レベル、あるいは国家レベルであっても、現在の利益と未来の利益のバランスをとりつつ投資行動を決めています。現在の楽しみや利害だけにお金と時間を使っていると、未来は先細りになります。未来の利益を決める最大の投資方法が何かといえば、きっと教育はその中のトップにあるのではないかと思います。 

 90年代、日本経済が混迷のさなかにあったとき、「日本はきっと回復するよ、だって、君たちは教育熱心だから」と、海外の知人たちからよく言われました。でも現在の日本は決して教育熱心とは言えないのではないかと思います。OECD加盟国の中で、日本政府の公的教育支出は、対GDP比率3.5%前後で、最低水準です。この話を聞いたとき、僕は愕然としました。一体、日本の国家予算はどのように使われているのか?(年金問題では、われわれ国民をだましてきたくせに!)

 教育への投資はすぐに成果がでてきませんし、モノのように、手にとって触ることができるものでもありません。でも、国力、あるいは企業レベルでもそうですが、将来の力(国力)を決定付けるのは、教育だと思います。軍事力も、経済力も、頭のいいやつたちと、水準の高い労働力なくして、強くなりません。頭のいいやつ、質の高い労働力を、教育なくして、どうやって育てるというのか?

 アメリカがなぜ強いのか?エリート層は本当に教育熱心です。IT教育においても、熱心だと思います。それはオライリー・メディアが開いているweb2.0 関連のイベントなどに参加していてもそう思います。(今年も、web2.0 expoには参加します)

 うちの親たちもふくめて、かつて、「子どもに残してあげられるのは、教育しかない」というセリフをよく聞きました。そのとき親たちが言っていた教育というのは、学歴ということでもありました。今、学歴の意味も変ってきて、どの学校に行ったのかという「学歴」だけでなく、「なにを、誰といっしょに勉強したのか」という、中味をより深く吟味した上での「学歴」が問われるようになっています。 

 PCスクールから大学・大学院教育まで、「なにを、誰と机を並べて学んだのか」ということが、すべての学校で大切なことだと思います。

 どちらにしろ、格差の問題が深刻になるにつれ、これまで子どもには学歴しか残してあげられないと言っていた親御さんたちが、学歴さえも残してあげられないほど、余裕がなくなっているのかもしれません。これまで日本の教育を支えてきたのは、実は、教育熱心な親たちで、公的な教育支出ではなかった。その親たちに余裕がなくなっているのだとしたら、日本の未来にとって、たいへんなことが起こっていると思います。

 ゴヤの絵に、「我が子を食らうサトゥルヌス 」という作品があります。ゴヤ晩年の、「黒い絵」シリーズのひとつです。今の日本そのものだと思います。