ネットカフェ女子

 朝日新聞夕刊によると「ネットカフェ女子」(ネットカフェで寝泊まりする女子)が増えているとか(社会面の記事)。昨日、「オデッセイマガジン」の取材のためにお会いした詩人で社会学者の水無田気流(みなした・きりゅう)さんのコメントがそえられていた。「日本女性は非正規の仕事にしかつけない場合が多く、平均賃金も低い。これまでは親や夫に庇護されて貧困は見えにくかったが、庇護者自体が困窮して、職や住まいを失う女性も現れて女性の貧困が表面化している」と。
 「貧困大国アメリカ」というタイトルの本が出ていたと思うけど、「貧困大国ニッポン」という本がでてきてもおかしくない状況になってきているのか?

追記
朝日新聞の記事にも関連するけど、大学生が、日本の将来に希望を持てないというのはつらい話しだ。
ロイター記事

企業に頼りすぎていない?!

 今日お会いしたある方(女性)が、日本の企業社会において、女性社員、特に非正規雇用者が産休、育休をとることがどれだけ稀なことかという話しをされていました。いったん休んでしまうと、もう仕事がない、ポストがないということだそうです。産休はまだしも、育休に関しては、非常に難しいという話しを聞きました。ご本人も、産後一か月で職場に復帰したとか。うちの会社は、社員数50名ほどの中小零細企業ですが、もう何人もの社員が、産休だけでなく、育休もとっているし、2回とっている女性社員が複数いますというと、「なんて恵まれた!」という反応。ほかの会社の話しを聞いていると、この点に関しては、(自画自賛になってしまいますが)小社はすごくいい職場かもしれません。
 でも、産休、育休は企業側にコストがかかります。本人たちには見えないところで企業には大きなコストがかかっています。女性の社会進出や、女性が仕事を継続することをサポートすることを、政府が本気で思っているのであれば、産休、育休の社員を抱える企業に対して、目に見える支援をお願いしたいです。たとえば、ひとりの社員あたりいくらという減税のような。それでも企業の負担は十分にカバーされないのが実態です。でも、会社の経営者に対するポジティブなメッセージのひとつになるように思います。
 書いていけばキリはないのだけど、日本社会はちょっと企業に頼りすぎていないでしょうか。政府も個人も、多くのことを企業に頼っています。バブル崩壊後、企業に余裕がなくなると、日本全体に余裕がなくなってしまいました。それほど、個人も社会も企業に頼っている部分が多い。例えば、教育。これまで社会人教育は企業におんぶにだっこでした。
 あるいは、企業が行っている社員の所得からの源泉徴収。本来なら、個人が確定申告をし、自分が払っている税金をしっかり認識すべきなのに、会社側が「徴収代理人」の役割を果たし、その結果、個人も自分が払っている税金の額をしっかりと認識していないのではないかと思います。
 最初の話にかえると、女性の働き方の問題は、女性だけの課題ではなく、男性の働き方、社会全体の考え方を抜きにしては議論できないので、そのあたりのことには入っていかないです。あまりにも現実は理想とかけ離れているので。

NHKスペシャル「無縁社会〜無縁死3万2千人の衝撃〜」

これはすごい番組だった。都会でひとりさびしく死んでいった何人かの人たちの人生をたどっていく試み。あまりにすごい番組だったので言葉がない。きっと再放送があるはずなので、見ていない人にはぜひご覧いただきたい番組。
NHKスペシャル「無縁社会」
行旅死亡人

土佐派の家

 この前高知に帰ったとき、「土佐派」と名乗っている高知県の建築家のグループがあることを知りました。実際、これまで3冊、「土佐派の家」というムック版書籍を発行しています。(「土佐派の家PART I、PART II、PARTIII」)この前泊まったオーベルジュ土佐山も、「土佐派」の中心人物の一人、細木茂さんの作品のひとつ。この本の中で、土佐派の建築家たちが高知県の木を使って、100年保つ家をつくろうという心意気で仕事をしていることが紹介されています。すばらしいと思います。
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 戦後日本の家は、安かろう、悪かろう(と言っては申し訳ないのですが)の家が多くなってしまって、ハウスメーカーの家なんて、20、30年で取り壊しなんてものが多いように思います。安い海外の木材をつかってコストを下げることが多いようですが、僕は家に関しては、ちょっと「ナショナリスト」に近いので、これからの家は地元でとれた木材を使って、100年保つような家を、飽きのこないシンプルなデザインで作るのがいいのではないかと考えるようになっています。毎年訪問している秋田の国際教養大学は、秋田杉をつかった校舎や図書館を建てていて、これもすばらしいです。
 うちの近所も、20年、30年程度の家がほとんどなのですが、どんどん壊されています。後には、ばらばらのハウスメーカーの家があっという間に建つというのがパターンです。昨日も、歩いていると、そんな現場に出会いました。ちょっとドキッとするような言葉かもしれませんが、「家が屠殺」されるような感覚を持ちました。でも、家畜たちと違って、家の廃材は、産業廃棄物として、すべて捨てられていくのでしょう。古民家と言われるようなしっかりした旧日本建築の場合、立派な柱が再利用されるようなこともあるようですが、20年前、30年前、既製品として安上がりに作られたハウスメーカーの分譲住宅には、そんな資材となるようなパーツは含まれていないのかもしれません。
 このごろのデフレの話しで、安いものばかりが売れる、適正な利益を上げることが難しくなっていると、言われています。利益を上げることに関しては、企業経営における努力が必要ということはもちろんなのですが、背景として、戦後の日本がじっくりとものを考える訓練をしなくなり、肝心要の家に関しても、20年程度でスクラップになるようなものしか建ててこなかったこと、安いもの、すぐに捨ててしまうようなものばかりが身の回りにはんらんしているというような状況があります。ちょっと値段が高くても、いいものを買って、末永くおつきあいする、そんな買い物の仕方が好きです。人との付き合いも同じ、かな。
 「土佐派の家PARTIII」の中に、こんな言葉がありました。「人が家を作り、家が人を作る」。

土佐派ネットワークス

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毛利子来さんのお話

 最近、人の出入りが多いところ、たとえばビルのトイレとか、オフィスの玄関などで、抗菌アルコール製剤を置いてあるところが増えています。世界でこんなことをやっているのは日本だけだと、僕は確信しています。みんなノイローゼになっていない?!

 そんなことやるよりも、ちゃんと食事して、早寝早起き、しっかり睡眠取っていれば十分対策になるはず(少なくとも普通の健康状態であれば)。ちょっと日本全体が薬関係の会社の宣伝や脅しにおびえているような感があるし、みんな潔癖すぎるのではと思うのですが、僕が鈍感なのでしょうか。

 そんなことをずっと思っていたら、1月11日付の「日経ビジネス」の”有訓無訓”というコーナーで、小児科医の毛利子来という先生が、「過剰な医療、過剰な投薬が人間本来の免疫力を弱める」というお話をされていて、わが意を得たり!とうれしくなりました。

  • やたら国家や社会の規模でもって個人の生活に干渉を加えすぎている。その弊害の方が大きい。
  • タミフルは日本が世界の消費の8割というのは異常。
  • 厚生労働省は手洗いとかマスクとかワクチンを勧めるより先に、企業に対して過重な労働は避けるようにという勧告を出すべき。

などなど、とてもリーズナブルなお話をされています。

先生のお話、ネットにもたくさんでているようなので、ご一読を。

毛利さんに聞いたインフルエンザ騒動

自由のない国

ロイターのサイトで「自由のない国」トップ10が出ています。僕からすると、「住みたくない国トップ10」、「行きたくない国トップ10」と言い換えてもいいです。
1 北朝鮮 2 トルクメニスタン 3 チベット(これは中国かな?) 4 ソマリア 5 スーダン 
6 ウズベキスタン 7 ミャンマー 8 エリトリア 9 リビア 10 赤道下ギニア
ロイター

「消費者」となるのではなく、「生産者」に。

 オバマ米大統領がこんなことを言ったそうです。
"Encouraging young people to be makers of things, not just consumers of things."
「若者がモノを消費する人になるよりも、モノを作る人になることを奨励したい」。

 ここでいうモノっていうのは、必ずしも製造業でいうところのモノに限定して考える必要はないと思うのです。たとえば、YouTubeに自分が編集した動画をアップして、人に見てもらいたいと思う気持ちって、ちょっとした「生産者」の気持ちだと思います。それに対して、ぼけーっとテレビを見ている姿勢は、消費者そのもの。
 これをしてくれ、あれをしてくれっと、政治に陳情や不平不満を言っている姿勢は、「消費者」。それに対して、自分と同じあるいは近い価値観を持つ政治家を見つけ出し、支援者としてたとえ小額であっても寄付したり、講演会に参加するのは、「生産者」の姿勢。
 日本って、消費者の姿勢が強すぎない?
テレビ見ていても、政治にあれしてくれ、これしてくれって、そんなことばかり言っている人が多い。もしかして、テレビがどうしようもなくって、そんな人しか出さないのかな。税金をごまかす人もいる。結構いるような気がする。そんな人たちも、税金であれしてくれ、これしてくれって。われわれのように給与所得者はいっさいごまかしはできないけど。

 こうも言えるかもしれない。日本という国自体が、1945年以降ずっと、安全や防衛といった、独立国として当然の価値の「消費者」であって、「生産者」となっていない、って。別の言葉で言うと、ただ乗り、フリーライダー。
日本では自分で起業する人が少ない。本当に少ない。アメリカは(起業家にとって)世界でもっとも恵まれたマーケットだから、アメリカとの比較は必ずしも妥当ではないかもしれないけど、日本がこんな状況なのは、本当に残念。
 リストラされたり、何らかの理由でどうしても自分で会社を始めないといけなくなった人たちも、今のような時代だと出てきているでしょう。すべての起業家に幸あれ。「消費者」ではなく、「生産者」の道を歩み始めた人たち、すべてに。
 たとえ会社員であったとしても、自立した心持ちで、(やり方を教えてもらえなかったとしても)自分で解決策をさがし、実現していく人は、「生産者」。そんな「生産者」にも大きな幸がありますように。

追記
昨年後半に出版した
「経営の才覚」をお読みいただいた知人からは、「会社を始める前に、この本を読んでいたら違った展開があったかもしれない」、「現役の時に、こんな本を読んでいたら良かったのに」というような声をいただいています。
american book & cinema

Survival of the fattest

今日のFinancial Times 記事で知りました。

西側先進国の太ったおばさんを、痩せこけたアフリカの男が担いでいる彫刻。途上国と先進国の間の不平等を表すものとして、デンマークのアーティストが作ったもの。

日本の年金問題もまったく同じ構造。

Survival of the fattest 彫刻

日本の政治家に教えてあげた方がいいこと

 小沢さんが「キリスト教は排他的だ」と、仏教関係者を訪問したときに口にしたという記事を読みました。多分、仏教関係者へのリップサービスもあったのでしょうが、この発言が海外に報道されると、イスラム原理主義者の反キリスト教発言とほとんど変わらないように受けとめられるだろうなと、イヤな予感がしました。
 日本の村社会、男中心社会で育った政治家の先生たちって、西側主要国のリーダーたちが、宗教と性差別にものすごく注意していることを、頭ではわかっていたとしても、本当はまったくわかっていないのではないかと思います。今回のような小沢さんの発言は、かつて自民党の先生が言った、「アメリカには黒人がいるから民度が低い」なんていう発言と同じくらいアホなのでは?
 宗教と性差別に関しては、日本の政治家はもっと勉強した方がいい。
 オバマが黒人としてアメリカの大統領になったことは画期的です。でも、もっと画期的なことだとボクが思っていることは、アメリカの大統領に、無神論者、あるいはキリスト教者以外がなることです。仏教者、あるいはイスラム教徒が、アメリカの大統領になるようなことがあれば、それこそ、ものすごいことで、そのときには、アメリカはアメリカでなくなっているでしょう。(大統領就任演説の際、新大統領は聖書に手を置いて誓いをおこなうように)キリスト教とアメリカの国家としての成り立ちは根本のところで結びついています。アメリカを日本の同盟国として頼りにするのであれば、キリスト教に関して、半端な知識に基づいて発言するのは、危険だと思います。

平和市長会議

 このごろ、海外の知人たちと会うときには、「オバマにノーベル平和賞が与えられるのなら、日本の核廃絶運動にこそノーベル賞が贈られるべきだ」ということを話しています。うちの取引先の社長には先月このことを話したのですが、その後、周りの人たちにこの考えを伝えてくれているようです。
 ある人から、秋葉広島市長が中心になって行われている、「平和市長会議」の存在を教えてもらいました。
平和市長会議
 同じ内容が、海外に向けて英語のHPでも用意されています。
Mayors for Peace

 今日は久しぶりに皇居の周りをゆっくりとサイクリングしました。ジョギングする人たちが多数。