徴兵制の復活?

以前は受験戦争という言葉があったけど、希望者は全員大学生になれる時代になり、この言葉も死語となったのでしょうか?
自民党で、徴兵制検討を持ち出そうとすると、党内から選挙に勝てなくなるということですぐに反対の意見がでて取り消しというニュースを見ました。徴兵制が復活する日は、いつか来ることはあるのか?
黒犬たちも飼い主も、戦争は大反対!だけど体を鍛え、精神を鍛えることは賛成!
それが兵役以外のことで行われるという前提であればですが。

若者たちを大切にしているのだろうか?

「スポーツ予算をムダ食いするJOCの役員メンバー」という記事を何度か読んでいて、JOC関係者たちによる「若者消費」の一例とさえ言えるようなものを感じた(石原都知事にもぜひお読みいただきたい)。一番大切にしないといけない選手たちの利害よりも、自分たちの利害を優先させているのではないか、と。
世代間においての格差は、年配者による若者たちの「搾取」とまで言わなかったとしても「消費」と言えるほどのものがあるのではないかとさえ思えることがある。年金問題はそのひとつ。あまりにも世代間の不公平感が強すぎる。失業率もある。若年層(15〜24歳)の失業率は全体平均の倍くらいあると聞く。親たちが若者たちを地元におきたがるという気持ちも、それが自分たちの老後の面倒をみてもらいたという気持ちから出ているのであれば、ある種の若者消費のようにも見えてしまう。寺山修司は書を捨てて街にでよと言ったけど、「親たちのペットになるな」と言いたくなる。

18歳に投票年齢を引き下げようとする動きに賛成する理由の一つは、若者に自分たちの未来を真剣に考える機会を与えていかないと、年配者たちの利害ばかりを優先する国になってしまうからだろう(いや、もうすでにそうなっているか。今発行されている国債発行は、将来の世代への負担を真剣に考慮していない訳だから)。投票権が与えられる年齢があるのであれば、投票権を「返上」してもらう年齢があってもおもしろいかもしれない。議論のための議論だけど、そんなことを考えてみる価値はあるのではないか?
ある意味、若い人たちはものすごく甘やかされているところもあって、少子化で経営が厳しくなっている学校は、ここまでやるのかと思えるほど、お客さんたちにへりくだっていて威厳も権威も吹っ飛んでしまっている感もある。でも、本当に若者たちを大切にしているのではなく、単に親たちといっしょにペット扱い、あるいは「消費者」扱いしているような印象もなきにあらず。
どっちにしても、若者を大切にすること、若者のことを考えることって、日本の未来を大切にすることだと思うんだけど。

『若者を喰い物にし続ける社会』(立木信著、洋泉社)

 お年寄りを大切にしないといけないのは言わずもがななんだけど、あまりにも世代間の不公平感が強くなりすぎていて、年金問題に現れている世代間格差はもう限界だとずっと思っています。そんななか、昨年買っていた本ですがようやく今日手に取って読んでみました。大きなテーマを新書で取り上げているので展開のしかたは荒っぽいところがありますが、僕より4歳下の著者の議論には同感です。
 日本が滅びていくとしたら、第三国からの攻撃だとか、資源の高騰とか、自然災害からよりも、内部矛盾から崩壊していくのではないかと思います。現在ある最大の内部矛盾が世代間格差。若者が夢を持っていない国がどうして栄えようか!
 いまの日本の状況は、JALの倒産に至るまでのプロセスがいい例なのですが、これまで恵まれていた時代に経営していた人たちが残していった負の遺産を、われわれ現役世代および若者世代が背負わされながら、国際的な競争も非常に激しくなったこの厳しい時代をサバイブしないといけないことかと思っています。戦後、焼け野原から立ち上がってきた過去の世代の方達の努力には感謝をしつつも、彼らの老後を支えていく負担があまりにも大きすぎる現状をどうにかしないと。
 現在、有権者の平均年齢が44歳、実際に投票する人間の平均年齢は50歳を過ぎているというような話がこの本の中に出てきます。政治家の方達も、老人ホームをまめにまわって票をかせごうとします。日本が活力をなくしている大きな原因のひとつは若者の声が十分政治に反映されていないことだとしたら、若者は絶対に投票すべきだし、20歳からではなく18歳から投票できるようにすることもひとつの方法かもしれません。
 以前このブログにも書いたことがあるのですが、若いうちに必要なのは苦労だと言われてきましたが、それは時代が右上がりの時の話です。それは終身雇用、年功序列でもそれなりに社会が続いていたときのこと。若いうちにへたに苦労すると折れたり、へこんだり、すねたりすることの方が多いし、マイナスの効果の方が多いのではないかと思います。それよりも、若いうちに必要なのは、いわゆるロールモデルではないかと思います。成功している人、活躍している人、いい仕事をしている人たちのそばで、彼らがどのように仕事をし、人と付き合い、どんな本を読み、どんな食事をしているのか。そんなことをすこしでも知ることができる機会を与えてあげること。ただ、ロールモデルを身近に探すことも非常に難しい時代になっていることも確かかもしれません。少しでも、後輩たちのロールモデルになれるように努力はしていきたいです。

ネットカフェ女子

 朝日新聞夕刊によると「ネットカフェ女子」(ネットカフェで寝泊まりする女子)が増えているとか(社会面の記事)。昨日、「オデッセイマガジン」の取材のためにお会いした詩人で社会学者の水無田気流(みなした・きりゅう)さんのコメントがそえられていた。「日本女性は非正規の仕事にしかつけない場合が多く、平均賃金も低い。これまでは親や夫に庇護されて貧困は見えにくかったが、庇護者自体が困窮して、職や住まいを失う女性も現れて女性の貧困が表面化している」と。
 「貧困大国アメリカ」というタイトルの本が出ていたと思うけど、「貧困大国ニッポン」という本がでてきてもおかしくない状況になってきているのか?

追記
朝日新聞の記事にも関連するけど、大学生が、日本の将来に希望を持てないというのはつらい話しだ。
ロイター記事

企業に頼りすぎていない?!

 今日お会いしたある方(女性)が、日本の企業社会において、女性社員、特に非正規雇用者が産休、育休をとることがどれだけ稀なことかという話しをされていました。いったん休んでしまうと、もう仕事がない、ポストがないということだそうです。産休はまだしも、育休に関しては、非常に難しいという話しを聞きました。ご本人も、産後一か月で職場に復帰したとか。うちの会社は、社員数50名ほどの中小零細企業ですが、もう何人もの社員が、産休だけでなく、育休もとっているし、2回とっている女性社員が複数いますというと、「なんて恵まれた!」という反応。ほかの会社の話しを聞いていると、この点に関しては、(自画自賛になってしまいますが)小社はすごくいい職場かもしれません。
 でも、産休、育休は企業側にコストがかかります。本人たちには見えないところで企業には大きなコストがかかっています。女性の社会進出や、女性が仕事を継続することをサポートすることを、政府が本気で思っているのであれば、産休、育休の社員を抱える企業に対して、目に見える支援をお願いしたいです。たとえば、ひとりの社員あたりいくらという減税のような。それでも企業の負担は十分にカバーされないのが実態です。でも、会社の経営者に対するポジティブなメッセージのひとつになるように思います。
 書いていけばキリはないのだけど、日本社会はちょっと企業に頼りすぎていないでしょうか。政府も個人も、多くのことを企業に頼っています。バブル崩壊後、企業に余裕がなくなると、日本全体に余裕がなくなってしまいました。それほど、個人も社会も企業に頼っている部分が多い。例えば、教育。これまで社会人教育は企業におんぶにだっこでした。
 あるいは、企業が行っている社員の所得からの源泉徴収。本来なら、個人が確定申告をし、自分が払っている税金をしっかり認識すべきなのに、会社側が「徴収代理人」の役割を果たし、その結果、個人も自分が払っている税金の額をしっかりと認識していないのではないかと思います。
 最初の話にかえると、女性の働き方の問題は、女性だけの課題ではなく、男性の働き方、社会全体の考え方を抜きにしては議論できないので、そのあたりのことには入っていかないです。あまりにも現実は理想とかけ離れているので。

NHKスペシャル「無縁社会〜無縁死3万2千人の衝撃〜」

これはすごい番組だった。都会でひとりさびしく死んでいった何人かの人たちの人生をたどっていく試み。あまりにすごい番組だったので言葉がない。きっと再放送があるはずなので、見ていない人にはぜひご覧いただきたい番組。
NHKスペシャル「無縁社会」
行旅死亡人

土佐派の家

 この前高知に帰ったとき、「土佐派」と名乗っている高知県の建築家のグループがあることを知りました。実際、これまで3冊、「土佐派の家」というムック版書籍を発行しています。(「土佐派の家PART I、PART II、PARTIII」)この前泊まったオーベルジュ土佐山も、「土佐派」の中心人物の一人、細木茂さんの作品のひとつ。この本の中で、土佐派の建築家たちが高知県の木を使って、100年保つ家をつくろうという心意気で仕事をしていることが紹介されています。すばらしいと思います。
Img_1372

Img_1368
 戦後日本の家は、安かろう、悪かろう(と言っては申し訳ないのですが)の家が多くなってしまって、ハウスメーカーの家なんて、20、30年で取り壊しなんてものが多いように思います。安い海外の木材をつかってコストを下げることが多いようですが、僕は家に関しては、ちょっと「ナショナリスト」に近いので、これからの家は地元でとれた木材を使って、100年保つような家を、飽きのこないシンプルなデザインで作るのがいいのではないかと考えるようになっています。毎年訪問している秋田の国際教養大学は、秋田杉をつかった校舎や図書館を建てていて、これもすばらしいです。
 うちの近所も、20年、30年程度の家がほとんどなのですが、どんどん壊されています。後には、ばらばらのハウスメーカーの家があっという間に建つというのがパターンです。昨日も、歩いていると、そんな現場に出会いました。ちょっとドキッとするような言葉かもしれませんが、「家が屠殺」されるような感覚を持ちました。でも、家畜たちと違って、家の廃材は、産業廃棄物として、すべて捨てられていくのでしょう。古民家と言われるようなしっかりした旧日本建築の場合、立派な柱が再利用されるようなこともあるようですが、20年前、30年前、既製品として安上がりに作られたハウスメーカーの分譲住宅には、そんな資材となるようなパーツは含まれていないのかもしれません。
 このごろのデフレの話しで、安いものばかりが売れる、適正な利益を上げることが難しくなっていると、言われています。利益を上げることに関しては、企業経営における努力が必要ということはもちろんなのですが、背景として、戦後の日本がじっくりとものを考える訓練をしなくなり、肝心要の家に関しても、20年程度でスクラップになるようなものしか建ててこなかったこと、安いもの、すぐに捨ててしまうようなものばかりが身の回りにはんらんしているというような状況があります。ちょっと値段が高くても、いいものを買って、末永くおつきあいする、そんな買い物の仕方が好きです。人との付き合いも同じ、かな。
 「土佐派の家PARTIII」の中に、こんな言葉がありました。「人が家を作り、家が人を作る」。

土佐派ネットワークス

Img_1433_2

毛利子来さんのお話

 最近、人の出入りが多いところ、たとえばビルのトイレとか、オフィスの玄関などで、抗菌アルコール製剤を置いてあるところが増えています。世界でこんなことをやっているのは日本だけだと、僕は確信しています。みんなノイローゼになっていない?!

 そんなことやるよりも、ちゃんと食事して、早寝早起き、しっかり睡眠取っていれば十分対策になるはず(少なくとも普通の健康状態であれば)。ちょっと日本全体が薬関係の会社の宣伝や脅しにおびえているような感があるし、みんな潔癖すぎるのではと思うのですが、僕が鈍感なのでしょうか。

 そんなことをずっと思っていたら、1月11日付の「日経ビジネス」の”有訓無訓”というコーナーで、小児科医の毛利子来という先生が、「過剰な医療、過剰な投薬が人間本来の免疫力を弱める」というお話をされていて、わが意を得たり!とうれしくなりました。

  • やたら国家や社会の規模でもって個人の生活に干渉を加えすぎている。その弊害の方が大きい。
  • タミフルは日本が世界の消費の8割というのは異常。
  • 厚生労働省は手洗いとかマスクとかワクチンを勧めるより先に、企業に対して過重な労働は避けるようにという勧告を出すべき。

などなど、とてもリーズナブルなお話をされています。

先生のお話、ネットにもたくさんでているようなので、ご一読を。

毛利さんに聞いたインフルエンザ騒動

自由のない国

ロイターのサイトで「自由のない国」トップ10が出ています。僕からすると、「住みたくない国トップ10」、「行きたくない国トップ10」と言い換えてもいいです。
1 北朝鮮 2 トルクメニスタン 3 チベット(これは中国かな?) 4 ソマリア 5 スーダン 
6 ウズベキスタン 7 ミャンマー 8 エリトリア 9 リビア 10 赤道下ギニア
ロイター

「消費者」となるのではなく、「生産者」に。

 オバマ米大統領がこんなことを言ったそうです。
"Encouraging young people to be makers of things, not just consumers of things."
「若者がモノを消費する人になるよりも、モノを作る人になることを奨励したい」。

 ここでいうモノっていうのは、必ずしも製造業でいうところのモノに限定して考える必要はないと思うのです。たとえば、YouTubeに自分が編集した動画をアップして、人に見てもらいたいと思う気持ちって、ちょっとした「生産者」の気持ちだと思います。それに対して、ぼけーっとテレビを見ている姿勢は、消費者そのもの。
 これをしてくれ、あれをしてくれっと、政治に陳情や不平不満を言っている姿勢は、「消費者」。それに対して、自分と同じあるいは近い価値観を持つ政治家を見つけ出し、支援者としてたとえ小額であっても寄付したり、講演会に参加するのは、「生産者」の姿勢。
 日本って、消費者の姿勢が強すぎない?
テレビ見ていても、政治にあれしてくれ、これしてくれって、そんなことばかり言っている人が多い。もしかして、テレビがどうしようもなくって、そんな人しか出さないのかな。税金をごまかす人もいる。結構いるような気がする。そんな人たちも、税金であれしてくれ、これしてくれって。われわれのように給与所得者はいっさいごまかしはできないけど。

 こうも言えるかもしれない。日本という国自体が、1945年以降ずっと、安全や防衛といった、独立国として当然の価値の「消費者」であって、「生産者」となっていない、って。別の言葉で言うと、ただ乗り、フリーライダー。
日本では自分で起業する人が少ない。本当に少ない。アメリカは(起業家にとって)世界でもっとも恵まれたマーケットだから、アメリカとの比較は必ずしも妥当ではないかもしれないけど、日本がこんな状況なのは、本当に残念。
 リストラされたり、何らかの理由でどうしても自分で会社を始めないといけなくなった人たちも、今のような時代だと出てきているでしょう。すべての起業家に幸あれ。「消費者」ではなく、「生産者」の道を歩み始めた人たち、すべてに。
 たとえ会社員であったとしても、自立した心持ちで、(やり方を教えてもらえなかったとしても)自分で解決策をさがし、実現していく人は、「生産者」。そんな「生産者」にも大きな幸がありますように。

追記
昨年後半に出版した
「経営の才覚」をお読みいただいた知人からは、「会社を始める前に、この本を読んでいたら違った展開があったかもしれない」、「現役の時に、こんな本を読んでいたら良かったのに」というような声をいただいています。
american book & cinema