『山本五十六の乾坤一擲』(鳥居民著)

領土問題にしろ、慰安婦問題にしろ、あるいは旭日旗の問題にしろ、日本の1945年まで35年間続いた韓国統治、1931年から1945年にかけて中国さらにはアメリカをはじめとする連合国軍との戦いとその戦いに敗れたことを勉強していかないと、上っ面のことしか見えないので、すこしずつですが、歴史の本も読むようにしています。
鳥居民は、大作『昭和20年』で知られる歴史研究者で、この『山本五十六』は表題の山本五十六をひとりの主人公とするのですが、もう一人の「ダークな」主人公は、内大臣であり、昭和天皇の相談相手でもあった人物、木戸幸一。祖父は木戸孝允。
著者はさまざまな資料から、山本五十六の戦争突入中止の必死の願い(天皇に直接訴える機会を模索していたという)を、木戸幸一が「にぎりつぶした」のではないかという推論を立てている。
木戸幸一は東京裁判でA級戦犯となるも、裁判では自分の日記を提出して「いい子」ぶったというなんとも小賢しいところを感じさせる官僚あがりの人間で、どうもいけ好かないタイプのような印象を受けた。
生き残った関係者たちは、自らの立場を守るということだけでなく、天皇を始めとする皇族関係者たちを守るということもあってか、沈黙を守った人間たちが多く、著者の仮説や推理の部分が目立った。

歴史的な事実関係とは別に、いくつかの教訓がこの本からあった。
1 「位が上がれば上がるほど増えていく儀式と行事、それに合わせて限りなく不勉強になっていく」(ページ32)。
2 トップの人間は現場の情報をダイレクトに得るチャンネルを常に持っていないといけない。

すべての組織に当てはまること。いまの政治も会社も。
祭り上げられたリーダーが注意すべきことは、この時代の日本の歴史を見ると痛いほどにある。戦前の日本を懐かしむ発言をする口さきの勇ましい政治家のみなさんには、ぜひ歴史のお勉強をお願いしたい。

『キケロ_ヨーロッパの知的伝統』(高田康成著)

こういう本を読むと、いかに自分たちのヨーロッパ文化の理解が浅薄で間違ったものになっているのか、読むべき本をわかっていないのか、と思い知らされます。キケロなんて、名前程度で、そういえば岩波文庫にあったけど、特に読んだことなかったな、くらいの無知さ加減からこの本を読み始めたので、とても面白く読みました。
特に、最終章(第5章)の「西洋学の遠近法」の章からは、改めていろいろなことを教わったように思います。

・ 日本ではギリシアがローマよりも重きを置かれているが、西洋文明に大きな影響を与えたのはローマであること。
・ 日本人の読書傾向もローマの文人たちよりも、ギリシアの文人たちに偏っていること。
・ 明治の時代に出会ったヨーロッパ、その時ヨーロッパでの流行りに多大な影響を受けていて、その流行りに至るまでに積み重なっているヨーロッパにおける文化の伝統への理解が乏しいこと。

もう上げていくとキリがないほどですが、以下のような文章は、ぼくのような人間には一撃となってこたえます。

 「米英文化の輸入超過は、映画からポップ・ソングまで、あまりにも明らかであり、その根底には英語を媒介としたアメリカン・カルチャーの遍在ということがあるだろう。そして、「キャピトル・ヒル」を首都にもつ国の文化を、その根底にまでたどって、カピトリヌスの丘をもつ文化との関連で見る人は、少なくともわが国では、少数派に属する。」

日本が、あるいは日本人が、まっとうな西洋理解にたどり着けるまで、あと何世紀かかるのだろうかというのが読後の感想の一つですし、西洋だけでなく、東アジア各国の理解さえも怪しいのではないかという恐ろしい気持ちにもなってきます。

クウ太郎近況、司馬遼太郎「空海の風景」、RCサクセション「サマータイムブルース」

今年11月の誕生日で16歳になるクウ太郎ですが、この1年、いや半年ほどで一気に老化が進んだように思います。動きが緩慢になっただけでなく、いわゆる「ボケ」が進んだように。GWは数日クウ太郎と一緒に山に行ったのですが、東京に帰った日から体調が悪くなり、その夜から動物病院通い。クスリと点滴のおかげで元気になりましたが、ボケ状態は変わらず。15歳というと70の老人でしょうか、それとも80の老人でしょうか?認知症は人間だけでなく、犬にもあります。2015年に亡くなった「永遠の愛犬」カイ(♀の甲斐犬)も晩年の何年かは認知症状態でした。
自分の年齢を考えると、クウ太郎が最後の飼い犬になるかもしれないけど、どうしようかな・・・いろいろと面倒なことは続々と発生しますが、犬たちとの生活はなんだ噛んだ(!)と言っても、楽しいことが多い。

今週は2泊で高知に帰省。高知にも認知症の大切な人がいるので、こちらでも気長に会話。
高知でも時間があると行く本屋が二つ。一つは高知市内の金高堂。ここで『「空海の風景」を旅する』を購入。「空海の風景」は上巻を買ってあって読んでなかったんだけど、この「旅する」はとても読みやすい。で、司馬の本にすぐに入っていくことができた。
宿毛の明屋書店では、忌野清志郎著「ロックで独立する方法」(新潮文庫)を購入。RCサクセションの「カバーズ」というアルバムがいい。このアルバムのことは、NHKのラジオ番組で知ったんだけど(忌野清志郎没10周年)、早速購入して聞いてみると、たいへんいい!この曲なんて、最高に愉快!

「サマータイムブルース」


四国出身で生まれた町にも育った町にも、弘法大師(空海)が残した札所があるというのに、これまで空海の思想や辿った道について、あまりにも無知で、大いに反省しています。

鳥たちの始業時間

GW中も普段と同じように日の出前くらいに起きていました。4時くらいだとまだ暗いので鳥たちも一日の仕事にとりかかっていないようですが、日の出前でも、4時半くらいになってまわりの景色がすこしずつはっきりしてくると鳥たちのさえずりが聞こえてきます。この時間が好きです。

鳥とは関係ないのですが、GW中に読んだ本の中では、「めぐり逢った作家たち」(平凡社)というエッセイが良かった。作者の伊吹和子さんは谷崎潤一郎はじめ、川端、井上靖、水上勉、有吉佐和子、司馬遼太郎などを中央公論在籍中担当していた編集者。編集者としてこれら大作家たちから高く信頼される仕事をされたのに、ご自分はたいへん控えめな方。「京女」のかがみ?!

この方の文章をよみながら、須賀敦子さんのエッセイを思い出しました。お二人ともすごい力をお持ちなのに、ご自身の「売り込み」に関しては、とても謙虚な印象。

「日本の同時代小説」(斎藤美奈子著)

彼女が書いている東京新聞のコラムは読むようにしていますが、お書きになられた本を読むのは初めてではないかと思います。新聞等で好評を得ているので、読んでみました。岩波新書で270ページほどの適度の長さですが、読みやすい文章、気持ちのいい文章の流れ、スマートな作品のグルーピングのおかげでとても楽しく1960年代以降の日本の文学の流れを辿ることができました。
気に入ったので、岩波新書からでている彼女のほかの作品(「文庫解説ワンダーランド」「冠婚葬祭のひみつ」)も読んでみようと思います。

カモシカ、懐古園

ニホンカモシカのファンです。インスタグラムでも各地のカモシカファンの写真を見ながらひとり悦に入っています。浅間山周辺にもカモシカが出没しているとのことで、この週末は思い立って浅間山荘(かつての事件とは関係なし)の登山口から登山道をすこしだけ歩いてみたのですが、そう簡単にカモシカに会えるわけではなく、上から降りてきたマジに登山をやっている人たちに尋ねてみました。3組の登山者に聞いてみたところ、一組からは見かけたという声がありましたが、残りの人たちもカモシカは見かけなかったということでした。あとで山荘の方から聴いたところでは、カモシカを見かけたという若者たちは獣医大学でカモシカの生態を研究している人たちで、カモシカがどのへんにいるのかもよくわかっている人たちだとか。
でも今年はあきらめずに浅間山周辺を歩いてみようと思います。腰痛はありますが、無理のない程度でハイキングをするのは精神衛生上もいいですし、下手な写真撮影も楽しみの一つです。
カモシカに会えなかったので、小諸市内まで下りて行って懐古園の中を初めて歩きました。もう閉園の時間が近く、島崎藤村が教えていた小諸義塾の記念館のみを見学。明治時代の向学心の塊のような学校で当時の小諸の人たちの熱い気持ちに感動しました。島崎藤村の「夜明け前」を読んだのはもう30年くらい前のような気がしますが、せっかく小諸に行ったからには「千曲川のスケッチ」くらいは読まなくちゃ。と思ってアマゾンをチェックすると、キンドル版が無料でダウンロードできました。
「千曲川のスケッチ」を読んでまたカモシカを探しに小諸に出かけたいと思います。
3月も今日で終わり、明日からは4月!

小諸義塾記念館
→小諸義塾

「映画女優若尾文子」(四方田犬彦・斎藤綾子編著)

もしかして10年以上前に買っておいたかもしれない本。発行は2003年になっている。
先週末、偶然衛星放送で視た『女は二度生まれる』(1961年、川島雄三監督)という映画の主演女優が若尾文子で、その映画が結構おもしろかった。「そういえば若尾文子についての本を買っていたな」と思い出して、本棚から取り出してここ数日熱心に読んだ本がこの「映画女優若尾文子」(みすず書房)。

ぼくの世代にとっては若尾文子はTVで見知っているだけで、映画はあまり見たことがなかった。彼女が大映の看板女優の一人として大活躍していたのは1950年代から60年代。この本のフィルモグラフィーによると、ぼくが生まれる前から彼女は活躍していた。(初めての映画は1952年の『死の街を逃れて』)。
この本で取り上げられている映画は、まったくと言っていいほど見ていないのだけど、若尾文子と彼女が大映時代に組んだ増村保造監督をめぐる女優論、監督論がとてもおもしろく、このふたりが作ったいくつかの映画をぜひ見てみたいと思った。(若尾文子がでていない増村保造監督の映画はひとつ観たことがある。『曾根崎心中』!)

表紙にでている若尾文子の写真が素敵だ。おいくつの頃の写真かわからないのだけど、とてもいい。なんども見ていて、ぼくの勝手な連想なんだけど内山理名を思ってしまった。内山理名の顔立ちは好きなタイプ。

『いにしえの恋歌』(著者:彭丹=ほうたん)

中国生まれ、日本在住の比較文学研究者による漢詩と和歌を題材にしたちょっとした比較文化論。
和歌は漢詩を土台にして生まれたもので、相通ずるものだ。だが、和歌と漢詩は異なる個性を持つ。恋歌が良い例だ。和歌はもっぱら恋を詠じ、視点は閨中の刹那にあり、優美なるもののあはれを志向するのに対して、漢詩は恋を詠うことにははばかりがあり、詩人の視点は広大な宇宙にあった。なぜ和歌と漢詩は異なる恋歌の世界を持つのか。
ひとつは詩歌の担い手の違い、詩人の視野の違い、国がおかれた状況の違い。
漢にあこがれながらも、漢を排除しようとする和。漢に対応しながらも、漢をどんどん取り入れる。和漢の峡間でもがいた日本人が見つけ出した方法は、和漢の境を紛らわせること。

10月に久しぶりに中国に行く機会があったが、あらためて中国の大きさ、人の多さを実感。「大陸的」という言葉を思い出す機会になった。それに対して、日本は繊細、優美、だけども箱庭的。

漢詩と和歌の違いは日中の違いに通じる。

『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタビュー』(河出書房新社)

マルセル・デュシャンに、かれに関する著作がある雑誌「ニューヨーカー」の記者だったカルヴィン・トムキンズがインタビューした記録。デュシャンのことはたいして知っているわけではなかったけど、ちょっと理解しがたい現代アーティスト(現代アートの父?)と思っていたので、このインタビューを読んでちょっと印象が変わった。
一時チェスに熱中していたこと、生活は簡素で、カネに縛られること、伝統に縛られることから自由であることを心掛けていたこと。「こうあるべきだ」ということからは自由であったこと(自由であろうとしていたこと)など、彼の作品を理解するしないの前に、ぼくにとって最適なマルセル・デュシャン入門の本となった。このあとも、デュシャンのことを調べてみようと思う。
この本は装丁もとてもセンスのいい仕上がりになっている。表紙のデュシャンの写真も素晴らしいと思う。

『田中角栄』(新川敏光著)

ミネルヴァ書房が出している「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊。
田中角栄の人気は最近また高まっているという意見もあるけど、どうなんだろうか?田中角栄を懐かしく思うのは60代よりも上の人たちが多いのでは?もうすぐ60に手が届くぼくもそのひとりかもしれないけど。
この本で印象に残った話は、2、3あるのだけど、田中失脚のきっかけになった文藝春秋の記事を書いた立花隆から、田中に好意的な意見が聞かれるようになったという話がひとつ。(年をとると、立花隆も丸くなったということか?)
小学校しかでていない田中のカネを受け取ったのは、彼を軽蔑していたであろうエリート連中で、一番彼をカネづるとして利用したのは、佐藤栄作(彼の派閥)だったのではないかという話。あとに続く、竹下登も、金丸信も、田中ほどのスケールと政策を作り出す力はなかったこと。(それを言えば、そのあとに続くほとんどの政治家たちがそうだろう)

あとがきに著者が書いている以下のような文章が一番印象に残った。
 
「田中角栄というと、私がすぐ思い出すのは、仕立てのいいスーツに身を包み、下駄履きで自宅の庭に佇む姿である。(中略)その写真は、後から考えると、戦後日本を象徴するものであった。戦後日本人は、和魂洋才どころか、和魂を捨ててがむしゃらに西欧的近代化のやり直しを図った。それが曲りなりにも成功し、日本は経済大国になった。仕立てのいいスーツを着るまでになったのである。しかしいかに西欧と肩を並べたと喜んでも、出自は隠せない。日本人とは何者なのか。足元を見るとわかる。下駄履きなのである。少年の私は、それを隠したかった。しかし角栄は、隠さなかった。だから私は、恥ずかしかった。そしてそのことに思い当たった時、恥ずかしいと思った自分が恥ずかしくなった。」

ぼくも著者と同じ恥ずかしさを共有する。日本のエリートといわれる人たちの多くも、実は下駄履きではないだろうか。