『後藤田正晴_語り遺したいこと』(岩波ブックレット)

2005年9月に亡くなった政治家、後藤田正晴が加藤周一、国武武重(朝日新聞)を相手に行った対談。15年前の発言ですが、現在においてもなお的確であり、かつ有効な日本政治に関する批判となっている。
そのことはある意味では日本政治の進歩のなさを意味していて、たいへん残念な話でもある。

共感する後藤田正晴のメッセージ:
1 いま日本政府がやっておることは憲法の尊厳性、あるいは信頼性を失わせてしまうものではないかと思うんです。
2 (戦前と戦後の連続性が強いことに関して)要するに、日本の場合には、指導者が結果責任をとっていないということですよ。責任が明確でない。
3 本当に国の将来、未来を切り開こうと考えるのなら歴史に正対をしていくくらいの覚悟がなくて、どうなりますか。
4 本来の政治主導というのは、内閣主導であるということです。(中略)総理大臣は、外に向かっては内閣を代表するけども、閣議の中においては一国務大臣でしかない。総理が中心の内閣主導ということが「政治主導」の正しい意味だと思います。
5 もう少し自主自立のものの考え方でアジアに目を向けないと、アメリカ一辺倒ではこの国は危なくなるよ。

自公政権について、「公明党・創価学会のほうが、外へはもう絶対に出ないという姿勢でしょう」という国正の指摘に対して、「あれがまた不思議でね」という受けもいい。自民党といっしょになると(権力に近くなると)、みんな消えていく(自分らしさをなくしていく)という話はいまも変わらないことだと、おもしろく読んだ。

『アンビルトの終わり』(飯島洋一著、青土社刊)

副題に「ザハ・ハディドと新国立競技場」とあるように、アンビルトの女王を取り上げた論評ではあるのですが、シュプレマティズムから東京オリンピック2020までの1世紀あまりの時代と思想の変遷をたどった990ページにわたる大著。同年代ということもあってその筆力に感心しながら拝読。以下は、最終ページからの著者の「叫び」:

「死」に至るまで、物事を突き詰めようとする「ユートピア」も、(ザハ・ハディドが憧れた)「シュプレマティズム」も、「アンビルト」も、「ポトラッチ」も、すべてが何かを、大きく間違えている。
「大きな物語」ではなく、また決して偉大な英雄の伝記でもなく、神話でもなく、ただ個人の人間の小さな努力の積み重ねが、いま必要になっている。たとえそれが、社会変革などもたらさないとしても。
たとえば、大きな自然災害から人の身を守るためにつくられた集落がそうであったように、決してデザインの派手さではなく、まず、人の命を守る建築、人が確かに生きるための建築こそが、いま、強く求められている。少なくとも、私はそう固く信じている。そして、それをつくる人こそが、「本物の建築家」である。

この10年ほどこれまで以上に世界を支配しつつある、いわゆるGAFAなどのインターネット企業について、著者がどのような考えを持つのか、聞いてみたいと思いました。

『野の鳥は野に_評伝・中西悟堂』(小林照幸著)

「日本野鳥の会」をつくった中西悟堂の評伝。仏教徒としての修行を行い、文章を書き、歌を歌い、そして鳥たちを愛した人生。
自然を人間と対立するものではなく、また征服するものでもなく、「自然を保護することは人間を保護することだ」と考えた。
冬でもパンツひとつで歩き回ったというようなこともあったようで、そんな変わったところも興味深く読むことができた。
野鳥の会も運営をめぐって、年老いた中西と若い世代の人たちの間では考えの違いがあったようだけど、公益法人の「経営」「運営」は株式会社とは異なる難しさがあるのはとても理解できる。
現在の野鳥の会はどのような課題を抱えているのか?
この本はずっと前に買っておいたのに「積読」のままだった。数年前に、野鳥の会の終身会員になったこともあり、なにか貢献できることがあると良いなとも思っている。

『国会議員基礎テスト』(黒野伸一著)

先週、九州出張に出かける際、羽田空港の売店で見かけて買った本。国会議員にも検定試験をという帯にひかれて買いました。
実はあまり期待していなかったのですが九州滞在中に読み終えてしまいました。政治の裏側、特に選挙の実態を垣間見ることができたことと、心温まるストーリー展開が魅力。
こういう小説は、かつてなら「中間小説」というカテゴリーに入るのではないかと思います。スピード感をもって読み進むことができました。
この作者の名前は初めてでしたが、おもしろかったので、『あさ美さんの家さがし』という別の小説も(これは図書館で借りて)読んだのですが、これも同じように心温まるストーリー展開で、作者の狙っているところがなんとなくわかった気がしました。

どちらもテレビドラマにするとおもしろい番組になるのではないかと思います。
最後に。「国会議員に検定試験を」という案、だれかマジで進めてもらえないだろうか?

アダム・スミスがいま生きていたら

3月7日の朝日新聞の書評コーナーで、『スミス・マルクス・ケインズ』という本が紹介されていた。3人の経済学者を主役にすえた人物論ということ。
著者のスミス理解は、小さな政府、自由放任を唱えたスミスとは正反対で、「スミスは現代に生きていればおそらく社会民主主義者になっていただろう」というものらしい。競争と自由市場の擁護は、国家と結託した特権階級を理論的に打ち砕くためだった、とか。
主義主張、理論も歴史的な文脈、提唱された時代背景を抜きにとしては理解できないし、理解するべきではないとも言える。
この本の著者はウルリケ・ヘルマンというドイツのジャーナリスト。まちの図書館に彼女の別の著書『資本の世界史』があるようなので、まずこの本を読んでみようと思っている。

『食事のせいで、死なないために(病気別編)』(マイケル・グレガー著)

肝臓治療を専門にするある先生のツイッターで推薦されていた、科学的調査に基づいた書籍。この本からあらためて食事の重要性を再認識した。
1 食こそ医の原点であり基本である。
2 にも関わらず、アメリカの医学部でも栄養学にあてられる授業数は非常に限られている。
3 なぜそうなるのか?栄養学では医者にとってはカネにならないから。治療を行い、薬を処方することでカネになる。
4 緑黄色の野菜、果物を中心とする食事に変えていくこと。
5 肉(特に加工肉)はよろしくない。魚も調理の仕方によってはよろしくない。
6 政府が発表する報告書等は必ずしもあてにならない。なぜか?業界団体の政治的圧力に屈するから。
7 人間の死因の多くが生活習慣病になった今の時代、なにを口に入れるのかこそ、もっとも重要な健康イッシュー。

父や母が自らの身体をもって示していくれたことのひとつは死へのプロセスは長年にわたって静かに進んでいくこと。そのなかで重要なカギを握るのが食事、運動、そして人とのコミュニケーション。

残り2ヶ月

2019年も11月に入り、残り2ヶ月弱。
そして来月の誕生日でボクも60歳の大台に乗ってしまいます。ああ、イヤだ、嫌だ!
自分のこともそうなんだけど、もっと気になっているのは、我が家のクウ太郎君。今月迎える誕生日で彼も16歳。人の年齢で言うともう80歳は越えているのではないかと思います。
この1年ほどでめっきり弱くなったのが足腰。家の階段を上がることができなくなってきて、特に「下り」がだめ。足の踏ん張りが効かず、どどどーと、転げ落ちてしまいそうになるため、抱き抱えて降りて行きます。

2015年8月16歳と半年で亡くなったカイ(♀甲斐犬)はボクが海外出張から帰ってくるのを待つかのように、帰国した翌日に月へと旅立って行ったのですが、カイが最後に見せてくれたのは命あるものすべてがたどる老化から旅立ちへの過程。今、同じようにクウ太郎(♂甲斐犬)が、老いていくことはどういうことかを、日々の生活の中で教えてくれていて、これまで以上にクウ太郎への気持ちが強くなっていくのを感じます。散歩に出かけ、無事ウンチをしてくれると、ほっとするなんてことも。老犬の介護はたいへん!

今年に入って、オーディオブックを聴く時間が増えています。
昨年、英語のオーディオブックのAudibleの会員になって以来、毎月英語の本のオーディオブックを一冊聴くようにしていますが、半年前からは日本語のオーディオブックを展開している、オトバンクのAudiobook.jpでもいろいろな本の朗読を購入しています。この1、2ヶ月で、『日本の思想』(丸山眞男)、『リークワンユー、世界を語る』、『知的生産の技術』(梅棹忠夫)、『夜と霧』(ヴィクトール・フランクル)、『ローソクの科学』(ファラデー)、『戦争と平和第一巻』(トルストイ)などなど。ボクは今のベストセラーよりも、古典的な本の方が好きなので、購入するのは岩波系の本が多くなってしまいますが、書店で平積みなっているような本もオーディオブックになっているので、audiobook.jpで、チェックしてみてください。
オトバンクの創業者の上田君には、かつて、「アイデア・エクスチェンジ」にも出てもらったことがありますし、今週も一緒にランチをしたりしていて、応援しています。

今年も残り2ヶ月。クウ太郎と一緒にがんばります。

「ビル・ゲイツの頭の中」

新聞か雑誌か、どこでその記事を読んだのか忘れましたが、ネットフリックス(Netflix)が制作した「Inside Bill's Brain」(ビルの頭の中)という、ビル・ゲイツのドキュメンタリー番組がおもしろいという記事を読み、その番組が見たいのでNetflixに登録してみました。最初の一か月は無料でそのあと、正会員になるかどうか、決めることができます。
Netflixは以前から知っていましたし、かれらが制作した映画『Roma』(アカデミー賞受賞)は、特別に映画館で上映されていた時、作品を観てとても印象に残っています。
今回、ネットで申し込みをし、とてもスムーズな登録プロセスに感心しました。
さて肝心のビル・ゲイツに関するドキュメンタリーですが、ゲイツとの長時間にわたるインタビューに加えて、彼の幼少期、マイクロソフトの歴史を丁寧に紹介するもので、ビル・ゲイツがゲイツ財団を通して、なにを成し遂げようとしているのか、よくわかる内容でした。
ぼくはこの番組を見るためにNetflixに登録しましたが、その価値はあったなと思っています。一か月後、正会員になるかどうか、それまでにこれ以外のコンテンツものぞいてみようと思います。
先月、Malcom Gladwellの「Outliers」をオーディオブックで「読んだ」のですが、ビル・ゲイツはこの本の中でも取り上げられています。特に、彼が13歳から18歳になるまでの数年間の間に、Lakeside という私立学校で、その当時大学生や社会人たちでも好きなだけコンピューターを使うことができなかった時代、いかに彼が有利な利用環境に恵まれていたのか、それが著者がいう「一万時間」という「訓練期間」を達成する「雌伏」期間になったのか。
「ビル・ゲイツの頭の中」と「Outliers」をまとめてみると、いかにビル・ゲイツが努力の人なのか、とてもよくわかります。

『山本五十六の乾坤一擲』(鳥居民著)

領土問題にしろ、慰安婦問題にしろ、あるいは旭日旗の問題にしろ、日本の1945年まで35年間続いた韓国統治、1931年から1945年にかけて中国さらにはアメリカをはじめとする連合国軍との戦いとその戦いに敗れたことを勉強していかないと、上っ面のことしか見えないので、すこしずつですが、歴史の本も読むようにしています。
鳥居民は、大作『昭和20年』で知られる歴史研究者で、この『山本五十六』は表題の山本五十六をひとりの主人公とするのですが、もう一人の「ダークな」主人公は、内大臣であり、昭和天皇の相談相手でもあった人物、木戸幸一。祖父は木戸孝允。
著者はさまざまな資料から、山本五十六の戦争突入中止の必死の願い(天皇に直接訴える機会を模索していたという)を、木戸幸一が「にぎりつぶした」のではないかという推論を立てている。
木戸幸一は東京裁判でA級戦犯となるも、裁判では自分の日記を提出して「いい子」ぶったというなんとも小賢しいところを感じさせる官僚あがりの人間で、どうもいけ好かないタイプのような印象を受けた。
生き残った関係者たちは、自らの立場を守るということだけでなく、天皇を始めとする皇族関係者たちを守るということもあってか、沈黙を守った人間たちが多く、著者の仮説や推理の部分が目立った。

歴史的な事実関係とは別に、いくつかの教訓がこの本からあった。
1 「位が上がれば上がるほど増えていく儀式と行事、それに合わせて限りなく不勉強になっていく」(ページ32)。
2 トップの人間は現場の情報をダイレクトに得るチャンネルを常に持っていないといけない。

すべての組織に当てはまること。いまの政治も会社も。
祭り上げられたリーダーが注意すべきことは、この時代の日本の歴史を見ると痛いほどにある。戦前の日本を懐かしむ発言をする口さきの勇ましい政治家のみなさんには、ぜひ歴史のお勉強をお願いしたい。

『キケロ_ヨーロッパの知的伝統』(高田康成著)

こういう本を読むと、いかに自分たちのヨーロッパ文化の理解が浅薄で間違ったものになっているのか、読むべき本をわかっていないのか、と思い知らされます。キケロなんて、名前程度で、そういえば岩波文庫にあったけど、特に読んだことなかったな、くらいの無知さ加減からこの本を読み始めたので、とても面白く読みました。
特に、最終章(第5章)の「西洋学の遠近法」の章からは、改めていろいろなことを教わったように思います。

・ 日本ではギリシアがローマよりも重きを置かれているが、西洋文明に大きな影響を与えたのはローマであること。
・ 日本人の読書傾向もローマの文人たちよりも、ギリシアの文人たちに偏っていること。
・ 明治の時代に出会ったヨーロッパ、その時ヨーロッパでの流行りに多大な影響を受けていて、その流行りに至るまでに積み重なっているヨーロッパにおける文化の伝統への理解が乏しいこと。

もう上げていくとキリがないほどですが、以下のような文章は、ぼくのような人間には一撃となってこたえます。

 「米英文化の輸入超過は、映画からポップ・ソングまで、あまりにも明らかであり、その根底には英語を媒介としたアメリカン・カルチャーの遍在ということがあるだろう。そして、「キャピトル・ヒル」を首都にもつ国の文化を、その根底にまでたどって、カピトリヌスの丘をもつ文化との関連で見る人は、少なくともわが国では、少数派に属する。」

日本が、あるいは日本人が、まっとうな西洋理解にたどり着けるまで、あと何世紀かかるのだろうかというのが読後の感想の一つですし、西洋だけでなく、東アジア各国の理解さえも怪しいのではないかという恐ろしい気持ちにもなってきます。