ゆれる世界の中の日本

これまでも、北京オリンピックが終わったあとの中国経済に懸念の声がありましたが、始まる前からその懸念が現実のものとなってしまいました。チベット問題、サブプライムの影響、環境問題。サブプライムはベア・スターンズ証券が救済される事態になり、昨年夏に表面化したサブプライム問題の深刻さをあらためて示しています。10年以上も前になりますが、ロシア債務危機があったとき、僕がビジネススクール卒業後にお世話になっていたバンカーズ・トラストも危機に陥り、ドイツ銀行に買収されました。同様のことが起こっています。

 日本は、いつものことですが、ゆれる世界の中で、右往左往しているように見えます。先週から、東大の小島毅さんの本を2冊ほど読みました。『足利義満-消された日本国王』(光文社新書)、『義経の東アジア』(勉誠出版)。どちらの本も、日本の歴史を、日本国内だけの現象でとらえる(日本一国歴史主義)ことの過ちを指摘し、平安、鎌倉、足利の時代の日本を、東アジアの文脈でとらえないといけないとしています。

 現在、グローバリズムとナショナリズムが相対して議論されることが多いですが、かつての日本の歴史の中でも、東アジアの文脈の中における日本と、国内事情からみた日本とが、時には重なり混ざり合い、時には反発しあってきたことを覚えておいたほうがいいと思います。1000年以上も前から、世界(当時は東アジア)の動きの中で、日本が単独で存在してきたわけではないことを覚えておけば、今現在の日本を考える上で、すこしは気が楽になりますから。

「パラダイス鎖国」(海部美知著、アスキー新書)

Kaifu 大学の同級生が初めての出版。シリコンバレーから今週帰国していて、今晩は彼女の出版記念パーティを同じ勉強会のひとたちと、如水会館で。池田信夫さんと梅田望夫さんが本の帯で応援メッセージ、さらに、梅田さんの解説付き。応援団は強力!いまのままでは、日本国内の「パラダイス」状況が終わる日は、案外近いか?

「お金は銀行に預けるな-金融リテラシーの基本と実践」(勝間和代著)

最近話題の著者の本。金融リテラシーは著者も書いているとおり、なかなか簡単に身に付くものではありません。この本もあくまでもきっかけにしかならないと思いますが、著者が紹介している書籍などを読み進んでいくことによって、少しずつ考え方が身に付いていくかもしれません。金融リテラシーの重要性は強調してもしすぎることはないと思います。「金融は私たちが生活していくうえで欠かせないもので、社会をよりよくする、生活の大事な基礎」という意見にも100%賛成。

 個別の論点では、住宅ローンを組むな、生命保険には注意しろ、海外株式・海外債券にも目を向けろというのも同意です。

 著者へのリクエストがひとつ。是非、税金のリテラシーに関する本も書いてもらいたいです。「タックス・リテラシー」こそ、われわれがもっともっと考えないといけないことだから。

ローレンツ、カール・ポランニー、マルクス

昨日某所で、ここ数年、ベストセラー作家として新聞・雑誌で活躍している、佐藤優さん(休職中の外務省事務官)のお話を拝聴。インテリジェンスの話からスタート(イスラエルのモサドと中近東情勢について)。 さらに、現在の世界をとらえる視点として、マルクス(「資本論」)、カール・ポランニー(「人間の経済」)、レーニン(「帝国主義」)などが有効ではないかというご意見。

 このうち、ポランニーは、大学生の頃、経済史の授業で「大転換」を読んだこともあり、経済人類学の代表的学者として記憶に常にあった著者なので、懐かしくもあり。

 インテリジェンスを学ぶには、動物行動学(コンラード・ローレンツ)を学べとか。イスラエルのモサド長官になった人物から直接教わったことだそうです。

 お話はたいへんおもしろく拝聴。テレビ、講演によって、目先の安易な金儲けに陥ることは注意されているとか。ただ、さまざまなところで大量の原稿をお書きになられているので、勉強したり、考えを深められる時間は確保していただきたいと僭越ながら思いました。

「すべては夜明け前から始まる」から

韓国の新大統領となる元・ソウル市長、李・明博氏の伝記的作品である『すべては夜明け前から始まる-大韓民国CEO実用主義の大統領、李・明博の心の軌跡』という本に、気になる表現がありました。以下のようなものです。

”韓流に接しながら感じる感動は、韓国の若者たちが無秩序のように見えながらも、あふれる創意力をもっているという点です。今のところ、まだ画一的な思考が残っている中国や、社会構造が出来上がって隙のなくなった日本に比べ、韓国ははるかにクリエイティブな力をもっています。”

 僕は韓国がクリエイティブな力を持っているのかどうかが気になるのではありません。日本が上記のように見られていることが、大変気になるのです。

 最近同じように気になっている言葉があります。それは、「ぬるい」という言葉です。仕事を適当にやったり、厳しさが足りないことを自覚している若者が、「うちの会社はぬるいですから」とか、「ぬるくやっていました」とか平気で使います。やらないといけないことに立ち向かっていかない、適当にその場しのぎの生き方、仕事への取り組み姿勢しか持たない。いまあることを当然の権利としている。それは出来上がってしまって、変れない、変ろうとしない社会の中での、消極的なサボタージュなのか?と想像することさえあります。

 さらに、この本の中には、以下のような言葉が含まれています。

”堂々としなさい。直視しなさい。正面から突破せずに勝利はない。”

”成功とはほかの人たちが諦めたことを最後までやり遂げることである。”

”職業が未来なのではない。未来はその職業をもった人にある。”

”大きな機会を求めるなら、より大きな問題に挑戦せよ。”

”変化の速度よりも、より速い速度で変化しなさい。”

”ビジョンとは見える1パーセントから、見えない99パーセントを探し出す力である。”

 

 日本の政治におけるリーダーの方々が、われわれを奮起させるような言葉を発してくれることを期待していますが、それはかなわぬ期待なのでしょうか?

「シモネッタのデカメロン-イタリア的恋愛のすすめ」(田丸公美子著、文春文庫)

著名なイタリア語通訳者による、イタリア的恋愛の進め。(僕は10年以上前に、この方とお会いしたことがあります)今日はバレンタインデーですが、以下のような記述を見つけました。

 「中部イタリア、テルニの神父さんにちなんだ愛の日ヴァレンタインデーも、本国イタリアでは男性が女性に贈り物をする。中でも、花はもっとも多用されるプレゼントで、レストランでは女性連れの男性を目当てに、高価なバラ一輪をテーブルに売りつけにくる。(中略)日本の男性も上手に花が贈れるようになれば、くどきのテクニックの初級合格である。贈る花の数は奇数で、13と17という数はタブーというルールも忘れないでほしい。」

 上手に花が贈れる男になるように、田丸さんのエッセイで、せっせと勉強してみようと思っています。

 

「そうか、もう君はいないのか」(城山三郎著、新潮社刊)

 城山三郎の死後、「小説新潮」(2008年1月号)に掲載された、妻・容子との思い出を記したエッセイの原稿。名古屋での出会いと再会の話が映画を観ているようだった。

 城山三郎が好きだったという言葉、「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」。 運命的な同伴者をなくした後、一人で歩き続けることは、きっと苦しかったに違いないと思いました。

 この本からも感じたこと、それは人生で大切なものは3つあるということ。健康、仕事、そして家族。この3つに恵まれたなら、すこしばかりおカネが足りなかったとしても、たいした問題じゃない、ってこと。

「黒山もこもこ、抜けたら荒野-デフレ世代の憂鬱と希望」(水無田気流著)

シアトルから帰りの飛行機の中で読み終えた本。1970年生まれの詩人(2006年中原中也賞受賞)・社会学者による、戦後社会論。1990年代前半に大学を卒業、就職氷河期に社会に押し出された世代の悲劇が繰り返し説明されていて、経済構造の大きな変化と変化の起こるタイミングが社会のみならず、個人に与える影響のことをあらためて考えました。(僕も、そのような変化の中で生きてきたのですが)

 でも、これが経済の現実、厳しいけど。個人の努力では変えようもない大きなトレンドがあることは確かで、そのトレンドにどうやって乗っていくのかがポイント。

 内容だけでなく、ちょっと硬質な表現や言葉の使われ方にも共感を持ちました。(「私の作品の乏しさは、郊外の乏しさそのものである。平準化された均質的な生活、歴史や教養の欠落、そのなかで人工的に促成栽培された野菜のような乏しさである。」 「あらゆるものが、すさまじい速度で書き換えられ、同時に書き換えられたという事実それ自体もまた消去されていっている。」) ご自身の生き様を中心とされた話がとてもよくて、そこから離れたときの話の展開には少々不満もあるのですが、最近読んだ本の中で非常に好感を持って読んだ本です。→作者のHP

「獄窓記」(山本譲司著、新潮文庫)

国会議員であった著者に秘書給与疑惑が発覚したとき、マスコミの報道は辛辣で下世話なものだったのを覚えています。僕のご本人に対するイメージは、マスコミの色眼鏡を通して得たものでした。マスコミの無責任さと恐ろしさをあらためて感じます。

 今日は雪ということもあり、午後はずっと部屋の中でこの本を読みました。久しぶりに感動的な本でした。国会議員から受刑者へ。それがどれだけ屈辱的なことかは、経験者にしか分からないのではないかと思いました。ご家族、特に奥さんの献身的な存在がどれだけ著者にとってささえとなったことか。この本は、さまざまな問題を提起しています。障害者と刑務所のありかた、日本の司法制度の問題、国策捜査などは、その一例です。

 議員辞職だけでなく、一審判決を潔く受入れ、刑務所内でも障害者たちの下の世話までしていた著者の真摯さに本当に頭が下がる思いがしました。

 話は飛びますが、先日、仕事でお付き合いのある、ある読書好きの方からお聞きした話です。明治から昭和にかけて大きな仕事をした経済人が、「人間は苦境に陥ったとき、初めて自己と対峙する。左遷される、大病をする、刑務所に入るというようなときに、初めて自分と向き合う。」という趣旨のことを言っていたそうです。国会議員から服役者へ。あまりにも大きな犠牲を払われましたが、その代わりに得たものは、もう誰も奪うことができない確固たる「自己」のように思いました。

「新・学問のすすめ」(和田秀樹著)

灘中・灘高、東大医学部、そして執筆者としても大活躍というような方が、「勉学は自分を信じる者を救う」なんて本を書くと、世間的にはどのような反応があるのかわかりません。が、僕はこの方の書かれていることのほとんどに賛成です。

 「まずは、自分を信じよ。できなければやり方を変えよ。必ずいつか成功の道にぶつかる。あとは、失敗から学べ。」学問を身に付けることだけでなく、ビジネスにおいても同じです。

 また、小学校から大学まで、私立の一貫校に通い、受験勉強で鍛えられたこともなかった人間に、一国のリーダーとしての知的闘争心や知的戦闘能力を期待するなんて、所詮無理だという意見にも、そのリーダーの責任放棄の仕方を見ていると同意せざるを得ないところがあります(この本は、安倍総理の辞任前に書かれています)。

 僕のまわりにおいても、小さい頃から競争にさらされていない若い人たちの自己保身と根拠のないプライドを見ていると、あっという間に年をとっていくこの人たちは、この先どうなるのだろうかと思うこともあります。(この前NHKの「一期一会」で見た東大中退のたくましい若者もいるわけで、一括りにはできないのですが・・・)

 ゆとり教育に賛成した人たち、学校内における競争を悪だと決め付けている人たち、努力するものと努力しないものの間に生まれる格差さえダメだとする人たち。その人たちも、世界の中での日本の位置を知れば、もうすこし違った考えを持つのではないかと思います。(その人たちが、日本もどこかの国の植民地となって、単純労働、低賃金で平均寿命50歳でも、「自分らしく生きることが出来ればいい」という考えならば別ですが) 国民レベルで、世界の競争の現実を知らない、あるいは知ろうとしていないのは、この本の著者ではありませんが、日本と北朝鮮くらいかもしれません。そのくらい、情報鎖国状態に日本はなっているかもしれないです。

 20年後、あるいは30年後、僕は1ドル=300円になっている可能性があると最近思うようになりました。日本の国力が今の三分の一になるということです。そのくらい近年のゆとり教育と、少子化による過保護の弊害が目に付きます。

 うちの会社は資格を商売にしているわけですが、資格取得のメリットのひとつは、目標に向かってすこしでも努力することだと思います。おせっかいな話かもしれませんが、そういう意味もあって、多くの若い方たちにわれわれの試験に挑戦いただきたいと希望しているしだいです。

 そして日本の総理には、「教育、教育、教育!」ともっと叫んでいただきたいです。日本の国力の唯一、最強の源泉は、国民の教育だけですから。