『なぜ日本は没落するか』(森嶋通夫著)

カゼをひいてしまい、家でごろごろしています。カゼをひいたのは数年ぶりですが、カゼをひくことにもいいことはあります。まず第一に、食欲がなくなります。おかげで数キロ体重が落ちました。でもこれは気をつけないとまたすぐに帰ってきます。第二に、ゆっくりと本が読めます。何冊かまとめて読んでいますが、その中の一冊が、日本を代表する経済学者だった故・森嶋通夫による『なぜ日本は没落するか』。(ちなみに、カゼをひいて困ることもあります。黒犬の散歩です。カイからすると僕がカゼをひこうとそんなことは関係ありません。こっちが38.6度の熱があっても、カイには散歩が必要です。)

 森嶋通夫は日本の大学に嫌気をさしてイギリスに渡ったまま、イギリスでなくなった人でした。そのように、「日本を捨てた」人は、どうも日本人の間で評判が悪いようです。でも、「日本を捨てた」からと言って、愛国心がないとは限りません。(つい最近まで、会社を辞めた人間は「裏切り者」だとするようなところが日本社会にはありました。)

 個人で太りやすい体質があるように、国も偏狭なナショナリズムに陥りやすい体質があると思います。特に日本は、日本語という壁の中で暮らし、外国の意見や考え方に、直接、接することもほとんどありませんから(英語の新聞でも読んでいれば別でしょうが)、どうしても議論に多様性が乏しい上に、感情的になりがちだということもあります。だから、僕は「日本を捨てた人」の「苦言」にも耳を傾けるべきだと思っています。

 この本の中での森嶋先生のお話は、端的に言って、戦後教育のもとで育った日本人が「劣化」しているということです。今の日本の大学生の大半は、大人としての成熟度、思考力などの面から見て、一昔前の高校生と同等と見なしていいのかもしれません。あるいはそれよりもひどいのかもしれません。(ひとつの「極端な例」かもしれませんが、ある席で、20名程度の大学生に、今の日経平均と、過去最高レベルのときの日経平均を聞いてみたことがあるのですが、まともに答えられる学生は一人もいませんでした。)僕が大学に入った30年ほど前にも、「かつての一橋大学の学生はこんなことはなかった」と、英語の先生に小言を言われたことを覚えています。日本の大学生の劣化はその頃からもう始まっていたのかもしれません。

 悲観論連続のこの本の中で、夢のある話は、東アジア連合の構想です。中国、朝鮮半島の統一国、そして日本が連合的な組織を作るという、壮大というか、夢のような話です。21世紀から22世紀、どうやって日本は存在していくことができるかと考えたとき、近隣諸国との関係を抜本的に改善していき、EU的な関係を築いていくことではないかというアイディアです。USA=United States of Asia!

 日本の村社会、封建社会の論理と、西洋社会により強くある普遍主義のせめぎあいが、明治維新以来の日本では、ずっと続いているのだと思います。その中で、森嶋先生のような方は日本社会でははじかれてきたのでしょう。でも、いつまでも村社会の論理を守っていけるほど、日本は独立国家ではないはずです。食料にしても、防衛にしても、教育さえも(この本の中で、森嶋先生も書かれていますが、東大の先生たちも、大学院教育にはアメリカに行けと生徒に指導していたという話があります)、海外、特にアメリカにおんぶにだっこです。

 森嶋先生のこの本は、最初に英語で書かれたのではないかと思います。英語でのタイトルは、Japan at a Deadlock. 「行き詰まった日本」この本が出たのは、99年のことです。残念なことに、10年ほど経った今、日本の行き詰まり状況は一層悪化しているように思えます。そういう意味で、この本の中で指摘されていることは依然として日本に当てはまります。

London Times の森嶋先生への追悼記事もあります。

 

『非属の才能』(山田玲司著、光文社新書)

 マンガを読まないので著者の名前さえも知らなかったのですが、新聞の読書コーナーの紹介で関心を持って読んだ本。すべての若い人が読んだらきっとヒントになるのではないかと思います。

 「みんなと同じ」が求められる日本で、「みんなと違う」、自分が望む生き方をどうすれば送ることができるのかを考えている本。言い古されている言い方をすれば、「和して同ぜず」ということ。著者によると、「和して属さず」ということ。

 単に抽象的なことだけでなく、とても具体的なアドバイスが気に入りました。たとえば、「独創性は孤立が作る」(第6章)、だから、引きこもりは人生のジャンピングチャンスだ、テレビは見るな、消費社会から距離を置け、ケータイも捨てろ、ネットも見るな、孤立は孤独ではない、人の意見を聞くと駄作になる(創る、そして人に見せるな)というようなアドバイスには大賛成。

 同時に、「非属」の人が陥ってはいけない「独善」をさけるためには、同調しないのはいいが、協調は必要だとしています。自分のなかの変っている部分をむやみに主張するな、自分が正しいかどうかはわからないという自覚を持て、ヒットされていようが無視されていようが、評価は自分でする、プライドなんてものは一刻も早くトイレにでも流せ、自分を認めてほしければまず他人を認めろなど。

 若い引きこもりたちだけにでなく、ビジネスマンにも参考になる本です。著者のマンガも読んでみます。

 

タンタンとチベット

オデッセイコミュニケーションズで使っているキャラクターのタンタン。実は、タンタンは、チベットと深い関係があります。日本でも、チベットに関心を持つ人が増えると思いますが、『チベットのタンタン』を読んでみてください。

福音館書店

ダライラマ法王日本代表部事務所

ゆれる世界の中の日本

これまでも、北京オリンピックが終わったあとの中国経済に懸念の声がありましたが、始まる前からその懸念が現実のものとなってしまいました。チベット問題、サブプライムの影響、環境問題。サブプライムはベア・スターンズ証券が救済される事態になり、昨年夏に表面化したサブプライム問題の深刻さをあらためて示しています。10年以上も前になりますが、ロシア債務危機があったとき、僕がビジネススクール卒業後にお世話になっていたバンカーズ・トラストも危機に陥り、ドイツ銀行に買収されました。同様のことが起こっています。

 日本は、いつものことですが、ゆれる世界の中で、右往左往しているように見えます。先週から、東大の小島毅さんの本を2冊ほど読みました。『足利義満-消された日本国王』(光文社新書)、『義経の東アジア』(勉誠出版)。どちらの本も、日本の歴史を、日本国内だけの現象でとらえる(日本一国歴史主義)ことの過ちを指摘し、平安、鎌倉、足利の時代の日本を、東アジアの文脈でとらえないといけないとしています。

 現在、グローバリズムとナショナリズムが相対して議論されることが多いですが、かつての日本の歴史の中でも、東アジアの文脈の中における日本と、国内事情からみた日本とが、時には重なり混ざり合い、時には反発しあってきたことを覚えておいたほうがいいと思います。1000年以上も前から、世界(当時は東アジア)の動きの中で、日本が単独で存在してきたわけではないことを覚えておけば、今現在の日本を考える上で、すこしは気が楽になりますから。

「パラダイス鎖国」(海部美知著、アスキー新書)

Kaifu 大学の同級生が初めての出版。シリコンバレーから今週帰国していて、今晩は彼女の出版記念パーティを同じ勉強会のひとたちと、如水会館で。池田信夫さんと梅田望夫さんが本の帯で応援メッセージ、さらに、梅田さんの解説付き。応援団は強力!いまのままでは、日本国内の「パラダイス」状況が終わる日は、案外近いか?

「お金は銀行に預けるな-金融リテラシーの基本と実践」(勝間和代著)

最近話題の著者の本。金融リテラシーは著者も書いているとおり、なかなか簡単に身に付くものではありません。この本もあくまでもきっかけにしかならないと思いますが、著者が紹介している書籍などを読み進んでいくことによって、少しずつ考え方が身に付いていくかもしれません。金融リテラシーの重要性は強調してもしすぎることはないと思います。「金融は私たちが生活していくうえで欠かせないもので、社会をよりよくする、生活の大事な基礎」という意見にも100%賛成。

 個別の論点では、住宅ローンを組むな、生命保険には注意しろ、海外株式・海外債券にも目を向けろというのも同意です。

 著者へのリクエストがひとつ。是非、税金のリテラシーに関する本も書いてもらいたいです。「タックス・リテラシー」こそ、われわれがもっともっと考えないといけないことだから。

ローレンツ、カール・ポランニー、マルクス

昨日某所で、ここ数年、ベストセラー作家として新聞・雑誌で活躍している、佐藤優さん(休職中の外務省事務官)のお話を拝聴。インテリジェンスの話からスタート(イスラエルのモサドと中近東情勢について)。 さらに、現在の世界をとらえる視点として、マルクス(「資本論」)、カール・ポランニー(「人間の経済」)、レーニン(「帝国主義」)などが有効ではないかというご意見。

 このうち、ポランニーは、大学生の頃、経済史の授業で「大転換」を読んだこともあり、経済人類学の代表的学者として記憶に常にあった著者なので、懐かしくもあり。

 インテリジェンスを学ぶには、動物行動学(コンラード・ローレンツ)を学べとか。イスラエルのモサド長官になった人物から直接教わったことだそうです。

 お話はたいへんおもしろく拝聴。テレビ、講演によって、目先の安易な金儲けに陥ることは注意されているとか。ただ、さまざまなところで大量の原稿をお書きになられているので、勉強したり、考えを深められる時間は確保していただきたいと僭越ながら思いました。

「すべては夜明け前から始まる」から

韓国の新大統領となる元・ソウル市長、李・明博氏の伝記的作品である『すべては夜明け前から始まる-大韓民国CEO実用主義の大統領、李・明博の心の軌跡』という本に、気になる表現がありました。以下のようなものです。

”韓流に接しながら感じる感動は、韓国の若者たちが無秩序のように見えながらも、あふれる創意力をもっているという点です。今のところ、まだ画一的な思考が残っている中国や、社会構造が出来上がって隙のなくなった日本に比べ、韓国ははるかにクリエイティブな力をもっています。”

 僕は韓国がクリエイティブな力を持っているのかどうかが気になるのではありません。日本が上記のように見られていることが、大変気になるのです。

 最近同じように気になっている言葉があります。それは、「ぬるい」という言葉です。仕事を適当にやったり、厳しさが足りないことを自覚している若者が、「うちの会社はぬるいですから」とか、「ぬるくやっていました」とか平気で使います。やらないといけないことに立ち向かっていかない、適当にその場しのぎの生き方、仕事への取り組み姿勢しか持たない。いまあることを当然の権利としている。それは出来上がってしまって、変れない、変ろうとしない社会の中での、消極的なサボタージュなのか?と想像することさえあります。

 さらに、この本の中には、以下のような言葉が含まれています。

”堂々としなさい。直視しなさい。正面から突破せずに勝利はない。”

”成功とはほかの人たちが諦めたことを最後までやり遂げることである。”

”職業が未来なのではない。未来はその職業をもった人にある。”

”大きな機会を求めるなら、より大きな問題に挑戦せよ。”

”変化の速度よりも、より速い速度で変化しなさい。”

”ビジョンとは見える1パーセントから、見えない99パーセントを探し出す力である。”

 

 日本の政治におけるリーダーの方々が、われわれを奮起させるような言葉を発してくれることを期待していますが、それはかなわぬ期待なのでしょうか?

「シモネッタのデカメロン-イタリア的恋愛のすすめ」(田丸公美子著、文春文庫)

著名なイタリア語通訳者による、イタリア的恋愛の進め。(僕は10年以上前に、この方とお会いしたことがあります)今日はバレンタインデーですが、以下のような記述を見つけました。

 「中部イタリア、テルニの神父さんにちなんだ愛の日ヴァレンタインデーも、本国イタリアでは男性が女性に贈り物をする。中でも、花はもっとも多用されるプレゼントで、レストランでは女性連れの男性を目当てに、高価なバラ一輪をテーブルに売りつけにくる。(中略)日本の男性も上手に花が贈れるようになれば、くどきのテクニックの初級合格である。贈る花の数は奇数で、13と17という数はタブーというルールも忘れないでほしい。」

 上手に花が贈れる男になるように、田丸さんのエッセイで、せっせと勉強してみようと思っています。

 

「そうか、もう君はいないのか」(城山三郎著、新潮社刊)

 城山三郎の死後、「小説新潮」(2008年1月号)に掲載された、妻・容子との思い出を記したエッセイの原稿。名古屋での出会いと再会の話が映画を観ているようだった。

 城山三郎が好きだったという言葉、「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」。 運命的な同伴者をなくした後、一人で歩き続けることは、きっと苦しかったに違いないと思いました。

 この本からも感じたこと、それは人生で大切なものは3つあるということ。健康、仕事、そして家族。この3つに恵まれたなら、すこしばかりおカネが足りなかったとしても、たいした問題じゃない、ってこと。