ふたつの「出入り禁止」

先週ネットで読んだニュースで、いやだなと腹の底から思ったニュースが、ふたつあった。別々の話なのだけど、そのふたつはまったく同じテーマであって、僕ら日本人が一番関心を持たないといけないことだと、僕は思っている。

ひとつは時の最高権力者が所属する政党が、ある報道機関が公平性を欠く報道をしているとして、出入り禁止を言い渡したこと。それに対して、その報道機関は、「指摘を受けたことを重く受け止める。今後一層公平、公正に報道していく」という詫び状を出すことで、「お許し」を得たこと。

もうひとつは、ある経営者が、自社の株価に関連して、消極的なレポートを書いたアナリストに対して、きちんとした分析に基づいたレポートではないとして、「出入り禁止」を一方的に公言したこと。その会社は自社の情報公開に関して、積極的かつ公正に行ってきたのか、その点に疑問を持つアナリストたちもいるというのに。

このふたつのケース、どちらもいま最も乗りに乗っていて、「我が世の春」を謳歌していると見られる権力者たちが、自分たちが気に入らない情報を流す報道機関あるいは証券アナリストを押さえつけようとする行動とも見える。

報道機関も、証券アナリストも、彼らの役割はまったく同じだ。権力者(経営者)と選挙民(投資家)の間にたって、情報公開や情報分析に役立つ存在であることを使命としている。彼らの仕事が雑であったり、公平性を欠くのであれば、われわれ選挙民(投資家)が判断して、彼らのサービス(提供される情報)を買わない、あるいは見なければいいだけだ。権力者たちに判断してもらう必要はない。「権力は腐敗する」という歴史の法則のもと、権力者たちのチェックをおこなうべきジャーナリストやアナリストという人たちの存在は、しっかりと守られないといけないし、彼らはきちんとした情報分析を通して、われわれ選挙民(投資家)の支持を得る努力を継続してもらいたい。

ふたつの「出入り禁止」は、別の意味でも結びついている。経営者は、時の権力者に近づくことで自社の利益を最大化しようとする。
先週読んだふたつの「出入り禁止」の記事が、これからの日本を暗示するものではないことを、祈る。

社会インフラも老齢化。

日本の老齢化は人口だけでなくって、道路や橋などの社会インフラもだということを、いろいろな人たちから聞いています。先日八ツ場ダム反対ということを再度書きましたが、決してすべての公共事業に反対しているわけではなく、必要な公共事業と不要な公共事業、費用と効果が見合った公共事業とまったく見合っていない公共事業を区分けし(仕分けし)ていく必要があると思っています。

首都圏を中心とする社会インフラ、たとえば橋、トンネル、高速道路などは東京オリンピックを控えた1950年代後半から1960年代前半に作られたものが多くあって、それらは出来上がってからすでに40年から50年の時間が立っています。コンクリートの強度など、もうそろそろ危ない時期に入りつつあるということを聞いています。

ちょうど今日、中央道の笹子トンネル内で、「コンクリート製の天井板が110メートルにわたり崩落し、少なくとも車3台が巻き込まれた」という記事を読んで、まさにこれから多発する可能性がある社会インフラの老齢化現象の一例かと思ってしまいました。これからは新規の公共事業よりも既存の社会インフラの維持管理だけで、ますます多額の予算が必要になるはずです。

ポラリスプロジェクト日本代表の話を聴く。

昨晩のことですが、ポラリスプロジェクト・ジャパン代表の藤原さんをはじめとする関係者によるプレゼンテーションをお聞きし、世界の人身売買の実態を伝える30分程度のドキュメンタリー映画を見たあと、1時間ほど議論する集まりに参加しました。

日本は人身売買に関する議論が低調な国のようで、先進国の中で、人身売買を禁止する法律がないという意味で、非常に「遅れた」国だと聞きました。

藤原さんは日経ビジネス・オンラインアエラなどで紹介されたようですが、この組織が掲げるミッションと比べ、日本社会、あるいは政府からの支援は、あまりにも小さすぎるような印象を持ちました。

ポラリスプロジェクト・ジャパンのHP

先生たちだってミスをおかすことはあるから。

海外の取引先の人で、マレーシアから短期的(一年間)にアメリカの本社に勤務している人と話をしていて、「一般的にアジアの教育はどうして教師から生徒への一方的な講義に終始しがちなのだろうか?」という話題になりました。彼の10歳になる娘は、アメリカの学校に転校になった当初は、積極的に自分の意見を表明することを期待されることに戸惑っていたけれども、現在ではそのやり方にかなり慣れ、授業の中で、自分の意見や希望を積極的に話すようになったということでした。

大学に入ってもそうですが、日本の学校教育のやり方は、先生が一方的に話し、生徒はひたすら板書をとり、記憶するという方式が主流でした。現在はどうなっているのでしょうか?

このやり方の弊害はあまりにも大きすぎます。素直で権威に弱い、正解がある世界でのみ安心しがちな人間を作ってきたのではないか?

日本の学校教育の弊害として、間違いをおかすことを非常に恐れる学生を作り続けているということが言われます。
いわく、間違いをおかすことを恐れる、突飛も無いことを考えようとしない、正解ばかりを求め、冒険をしようとしない、と。

それと同時に、先生たちも、生徒たち同様、間違いを恐れ、安全に自分たちの「権威」を守ることができる範囲でのみ、教員としての職務を遂行しようとしているのではないか?という気がするのですが、いかがでしょう。

同じマニュアル、同じ指導要領で、文科省の言う通りにやっている限りは、モンスターピアレンツから指弾を受けるような危ない橋を渡ることはないでしょう。特に「いい大学」に入るための受験勉強を指導している限りは、親からも歓迎され、大きな間違いを犯す危険もありません。受験指導に熱心な先生は大いに父兄から歓迎されるのではないでしょか。

でも世の中が必要とする人材も変わり、日本の有名大学を出たからといって、必ず活躍できる、いい思いをするとは限らない時代になりました。

問題は複雑になり、必ずしも正解があることばかりではなくなっています。それどころか、正解が見えない、正解があるのかどうかさえもわからない時代になっています。

のびのびとした、個性豊かで、自分の意見をしっかり持った生徒をもっと作りたいのであれば、実は先生たちから始めないといけないのではないか?と思っています。少々の間違いに萎縮するのではなく、間違いから学び、前例のない新しいことにも挑戦するように。すべての問題への正解を知っている訳でもないのだし、知らないことはたくさんあるはず。でもそんなことは認められない立場にあると、自分の間違いや弱さを隠すようになります。(原子力村の住人たち、霞ヶ関の住人たちにも、同じようなことが言えるかもしれない)

最近の学生は内向きで海外にも出たがらない、リスクをとりたがらないという話をよく聞くのですが、そんな学生たちは、彼らの周りの大人たち(両親や教師たち)の鏡なのではないかと思います。親や教師たちが冒険をしないのに、どうして子供たちが冒険するのか?

そんな意見を持っているので、実は文科省のあるプロジェクトの「応援メッセージ」として、「親や国を捨てろ」という、ちょっと過激な意見を書きました。
GiFT応援メッセージ

自由闊達な日本にならないものか。生徒たちだけでなく、先生や両親、会社員、霞ヶ関の官僚たち、そして政治家たちも、もっとのびのびと仕事ができないものか。多くの日本人が汲々として、クレームを受けないように、クビにならないように、ひたすら正解がわかっている守備範囲でのみ、仕事を無難にこなそうとしているように見えてしょうがないです。

去年のことを覚えている?

一年前の今日は、群馬県のお取引先を訪問するために、クルマで県内を回っていました。地震が起こった時刻は群馬県藤岡市のお取引先を訪問していました。


ボクが住む首都圏の町は液状化で四分の三が破壊されました。


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この交番は、地盤沈下のため大きく沈んだ上に傾き、しばらくたってから壊され、跡地はそのままになっています。

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町の中のスーパーは震災後の数日間は写真のような状況が見られました。

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うちの会社が入っているビルのローソンも、商品の供給が途絶え、しばらくはこんな状況でした。


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我が家は一ヶ月ほど、トイレ、水、ガスが使えず、近くの公園に設置された仮設トイレにお世話になりました。


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皮肉なことに、震災発生の週に発売された、2011年3月14日号の「日経ビジネス」には、原発の広告がたくさんでていました。

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(東京電力のプルサーマル広告)

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(東芝)

昨年は、石巻に一度、福島に2度伺いしました。石巻の日和山から見た風景です。


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今年も東北の知り合いの方たちを訪問したいと思っています。

この一年間のことを、今日くらいはゆっくりと振り返りたいです。

女川原発を「救った眼力」

3月7日の東京新聞は、女川原発が福島第一原発とは対照的に大事故に至らなかった理由の一つとして、元副社長らによる慎重な設計があったという記事を載せています。原発関係者の記事は、原発村住人たちがどれだけ酷いかという記事が多い中で、このようなしっかりした考えを持った人がいたという記事を読むと、新鮮に感じました。

記事によると、東北で生まれ育った東北電力の副社長だった平井弥之助さんは、一号機建設時、強行に「高さ15メートル」を主張。そのおかげで、昨年の震災時、女川原発は大事故を免れたという話です。1986年にお亡くなりになられているようですが、人の評価は死ぬまで定まらないどころか、死後、何年も経ってあらためて再評価されるといういい例ではないかと思いました。

後輩の方(といっても、現在82歳の元東北電力社員)によると、平井さんは常々、「法律は尊重する。だが、技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる」とおっしゃっていたそうです。

この記事の最後には、こんなコメントがあります。
「設計をすべて米国企業に委ね、『想定外』の津波対策を怠った福島第一と女川の違いは、東北の津波を甘く見なかった先人の眼力の差だった」

与えられた環境と歴史的位置をふまえ、自分の頭でしっかり考える人だけがいい仕事をすることができるのだと思います。

追記
今回、初めて平井さんの存在を知り、ウェブ等でこの方に関する文献がないか、調べてみましたがまとまった情報が見つかりません。ひとつ、平井さんに関する「逸話」のようなものを載せている、元建設省の方の文章を見つけました。(→HP)その文章を読むと、平井さんが持っていた「スピリット」や「生き様」をかいま見る思いがしました。

以下、そのHPからの引用です:

東北電力に平井弥之助と言う副社長で水力屋の怪物が居た。話によると、平井弥之助氏が、女川原発設計当時、津波の高さを考え、反対を押し切って海水面より14.8m以上に設置位置を変更させたという。事実、津波発生時、避難民の待避場所として使用される程のレベルであつた訳だ。平井氏はまた、また液状化等と言う考えが普及していなかった時代に火力発電所の基礎設計に、その対策として、周りの地下数十mの深さに四角形の壁を設け、後に起きた大地震に耐えたと言う話も窺ったことがある。ついでに私にとって平井氏に忘れられない話がある。私が水力課長の頃、電力を主体とする総合開発ダム計画(ダム高さ113m、出力75MW)を平井氏に持ちかけたことがある。そのとき平井氏は「国と一緒に仕事をして損することがあっても得する事はない」と言って断られた。私はそのために、企画庁を中心にして関係各省間で総合開発の費用負担の方法を政令で決めたのであるから、そんな心配はないと説得したが、納得をえられなかつたことがある。結局これは建設省によって建設された。平井氏は私に言わしめれば、企業人として全て総ての責任を守ると言う一徹さに尊敬に値する電力奇人のひとりである。今にして思うと、最近の八ん場ダムや川辺川ダムの経緯ように”完成時期”と”工事費の増額”に無関心な国の仕事に事業家としての責任感が追い付いて行けなかったのだろうと推測する。 
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民主主義を自分たちのものにすることは今日からでも始められる。

知人たちとの間で、日本の民主主義はホンモノではないという話がよくでる。日本の民主主義は、敗戦によって、アメリカから都合良く与えられたもので、日本人が自分たちで勝ち取ったものではない、と。だから日本にはまだ民主主義が根付いていないという。

社会的に上の立場にある人たちも結構そう思っている人たちが多いように思う。政界、財界、官界でも。特に数年海外で生活したことのある人たちの多くはそう思っているのではないか?

民主主義の前提として、多様な意見を作り出していく土壌、多様な意見に耳を傾ける寛容性が必要だけど、日本はそのどちらもいま一つかもしれない。

それに日本ではホンネで議論することが難しい。どこの国にも、ホンネとタテマエはあるから、ホンネの議論は難しいのだけど、日本の場合、議論してもいい枠がかなり狭いように思う。戦後しばらくはいろいろ議論もあったように見えるけど、80年以降は現状満足、バブル崩壊後は現状維持にきゅうきゅうで、異論を聞く余裕がなくなっている。

企業だってそうだ。80年代、日本企業が調子良かった頃、こんなお説教をアメリカにしていたのを覚えている?「アメリカ企業は四半期ごとの短期的利益ばかり追い求めているからだめなんだ。われわれ日本企業は長期的な視野に立って経営しているから成功しているんだ」って。でも今では目先のことばかりでヘトヘトなものだから、多様な意見に耳を傾ける余裕がなくなっている。家電なんて最たるものかもしれない。

そして政治はアメリカに抑えられ、多くの官僚たちもアメリカ留学して優等生ぶりを発揮してきた。世の中、優等生ばかりじゃ面白くない。

ちょっと違う意見を言うと、「輪を乱す」「扱いが面倒な奴」「どうせ変わらないよ」ということになる。マスコミの人たちと話していても、はっきりした論調を繰り広げるのが、なかなか難しい時代だと言う。自分が気に入らない意見に対して、クレームをしてくる視聴者や読者がいる。テレビ番組の場合には、局にクレームを言うだけでなく、その番組のスポンサーのところにまでクレームやいやがらせをしてくる。

ほとんど見ないけど、田原総一郎の「朝までテレビ」とか、ビートたけしの「TVタックル」って、滅茶苦茶な議論が多いかもしれないけど、議論の枠を狭めない役割は少しくらい果たしているかもしれない。

ある経済紙の人から聞いた話だけど、たとえばライブドアに同情的な記事には、大企業の団体あるいは経営者から「苦言」があったというから、一体、どうなっているのかと思う。クレーム入れるのは、個人や特定の団体だけでないということか?

「和して同ぜず」というのは本当に難しい。卒業した一橋大学のOB会は、「如水会」という名前だけど、この水の如しという言葉が大好きだ。人と人との付き合い、交わりは、水のごとくありたい。あまり濃すぎず、タンタン(!)としているのが好き。(「本当の友達」と言える知り合いって、一体、何人いるだろうか?)

議論するにも、あまりにも近すぎるところで議論するのは、ちょっと難しい。それなりの距離をもって議論した方がいい。やっぱり国が狭いのは、だめだなあ。君とは意見があまり合わないようだから、ボクはちょっと離れたところで生きていくよ、ってわけにいかないから。

タイトルの「民主主義を自分たちのものにすることは今日からでも始められる」。敗戦でもらった民主主義かもしれないけど、大切に、自分たちのものにする努力は続けていきたい。親からもらった財産だからって、捨てる馬鹿はいないからね。たとえ自分が発明したものでなかったとしても、たとえ自分が創業者ではなく2代目であったとしても、引き継いだ会社は大切にしていきたい。2代目だということに引け目なんて感じているヒマはない。(ボクは2代目じゃないけど、2代目、3代目の知人はたくさん知っている。なかには11代目、14代目なんて人もいる)

If ではなく、When。

今日の朝日新聞朝刊一面に、「日本国債急落シナリオ_三菱UFJ銀が対応策」という見出しの記事が出ていた。一体いつから日本国債のバブル崩壊が言われてきただろうか。この間、特に海外のファンドなどで、日本国債の下落にかけて大損を出してきた投資家も多いのだけど。

朝日新聞だけでなく、日経新聞なども、しばしば国債バブル破裂の記事を載せているけども、直近では数日前に、海外ヘッジファンドの運営者による国債下落予想のインタビュー記事を出している。(→日本国債バブル18ヶ月以内に崩壊する

不合理なことは長続きしない。そんなことは1980年代の不動産バブルから十分学んだはずだと思っていたけども、いまになってもまだ大丈夫だなんていう「不誠実」な人たちがいることに驚く。国内の貯蓄で対応できるなんて時代も、あと数年で終わりが見えてくるだろうに。

決してペシミストでありたいわけではなく、合理主義者でありたいと思う。それは理に合わないことは長続きしないということを信じているという意味での合理主義者。売り上げ10億円で利益がほとんど出ていないような会社が、20億も、30億も借入をしていて、どうして継続して存続できるのか、教えてほしい。金利がゼロに近い低さであろうと、決してゼロではなく、肝心の売り上げさえも減ってきていて、人件費、福利厚生費は上がるばかりの企業が倒産するのは時間の問題。国だからといって、手品でもあるというのか?

きっとハードランディングをしない限りは、日本の制度は大きくは変わらないだろう。社会保障制度を大きく切り詰めない限り、消費税をいくら10%にしようと、財政の赤字構造は変わらない。

これまで日本売りをしかけて、さんざん失敗してきた海外投資家に加わって、日本の投資家さえも、日本売りをしかけるのではないだろうか。負け戦だとわかっていても、国内で反対することはできなかったこの前の戦争と違って、チャンスと見れば、きっと国内投資家だって日本売りで稼ごうとするだろう。

If ではなく、Whenという段階なのに、政治家たちはなんてレベルの低い言い争いを国会のなかで行っているのだろうか。われわれ国民が払った税金を使いながら。

社会保障制度を変えようとしない「改革」なんてものは、一切信じない。そんな議論はすべてモルヒネみたいなもので、現実逃避にすぎないのだから。

日本を変える方法

年末、年始に帰国した大学のゼミの友人と食事をした時の会話です。彼は財閥系の商社に卒業以来ずっと勤めていて、ヨーロッパやアフリカでの勤務が長く、現在は資源豊富な旧ソ連邦の某国に単身赴任しています。ゼミの同窓のなかで、卒業以来付き合いがずっと続いている数名の一人です。

お互い近況報告をしたあと、「ゆでガエルになってしまっている日本を変える方法があるだろうか」という話になり、サラリーマンの源泉徴収を止めることだということで一致。

この源泉徴収という制度ほど、日本人の意識を麻痺させている制度はないのではないかと思います。(パチンコなどの麻薬的ギャンブル同様に!)。僕自身も含め、経営者であろうと、サラリーマンであろうと、会社からもらっている給与所得は、われわれの手元に届く(つまり銀行口座に振り込まれる)時には、すでに所得税、地方税、年金などがさっ引かれています。

10万円から3万円の税金を自分が払い込む場合と、10万円から3万円を差し引いた7万円を受け取る場合と、残念ながら税金に対する意識はまったく異なってきます。多くの人は、自分が3万円の税金を払っているということを、ほとんど意識していないのではないか?

源泉徴収は会社にとっても、負担が大きい作業です。これは本来税務署がやるべき仕事なのではないかと思いますが、専業主婦の家事作業同様、たいして評価されておらず、「やるのが当然でしょう」と思われているような気がします。うちの会社のような中小企業にとって、決して楽な作業ではありません。

いま、政府は一生懸命増税路線をまっしぐらに走っていこうとしています。僕も決して増税の必要性を認めないわけではないのですが、これまでのやり方を変えないまま、増税というのには納得しません。僕は、「個人、企業の自助自立。小さい政府。」を基本方針としています。そんな僕からすると、いまの政府の動きにはまったく賛成できません。

1過去の政策の失敗の検証、反省はないのか?誰も責任をとらないのか?
2マニフェストの実行はどうなったのか?
3増税の前に選挙で民意をつかめ。選挙で選ばれたわけでもない内閣には勝手に増税する権利はない。
4底に穴があいているバケツをそのままにしたままでは、水(カネ)はいくらあっても足りない。まずバケツの底(制度)を直してくれ。

こう見えても、結構愛国心が強い方だと思っています。日本が好きなので、一部に見られるような海外(たとえばシンガポール)に移住しようなんて気はいまのところありません(シンガポールの政府はすごいと思うけど、シンガポールみたいな気候の国には長くは住みたくない)。でももっといい政治を求めています。

まず税金をどのくらい払っているのか、理解すること。源泉徴収の目くらましに簡単にひっかからないこと。源泉徴収の制度がなくなることは革命的なことなので、百年単位で考えないと起こりえないと思っていますが、自分がどれだけ税金を払っているのか常に意識することだけは忘れたくないです。

集団による匿名の独裁。

2年前、八ツ場ダム現場を、我が家のクロイヌたちといっしょに見に行ったことがあります。このダムの建設が進むのかどうか、関心を持って見ています。民主党には、せめて八ツ場ダムに関する公約くらい守ってもらわないと、一体、なんのための政権交代だったのかと思っています。

先日の東京新聞に、八ツ場ダムの建設の是非について国土交通省関東地方整備局が住民から公募したパブリックコメントで、寄せられた意見の96%にあたる5739件が、「全く同じ文言で、同じ体裁の賛成意見だった」という記事がでています。記事は、ダム建設事業に参画したい埼玉県の意向が見え隠れするとしています。実際には、利根川水系の水は余っていて、これからの人口減を考えると、水需要は減少するだろうと予測されているのに。

もともと八ツ場ダムを作る話が何十年も前にでてきたときには、正当な考えから始まったプロジェクトかもしれませんが、今となっては、本当に必要なのかどうか、まったくわかりません。政治家も役人も、税金を使うことに関してまったく責任を取る気はないようで、自分たちのメンツと目先の票のことを最優先させているように見えます。もちろん、ダム建設がもたらすメリットは決してゼロではないでしょう(建設業者だって仕事は必要だ)。でもそれらメリットだけでなく、費用や自然に与える影響を考慮しているのか。そして出ていくおカネが自分たちのものであれば同じ「投資」の意思決定をするのか。彼らがそんなことを、「真剣に」考えているのかどうか、非常に疑問です。

ウォールストリートでよく使われる言葉。Other People's Money (OPM)。「他人のカネ」。「損をだすときは、OPMを使うべし」。税金というのは、政治家や役人にとってはまさにOPM。

すべて、将来世代が負担すればいいということ。

この前にあった大阪市長選挙で当選した橋下亨の政治手法に関して、「独裁者」の危険性を感じるという声があります。選挙結果を受け、「大阪市役所の職員たちは、選挙で示された民意を尊重すること。それが嫌なら、去って欲しい」という趣旨の発言などが、「独裁的」だということらしいですが、そのような趣旨のことは、企業やスポーツチームなど、成功している多くの組織のトップは、日頃、口にしていないでしょうか?文字通り去れというのでは決してなく、いろいろと議論を尽くしたあとには、トップの意思決定に従うことという意味で。

ボク自身は、橋下氏に関しては、今のところ好意的に見ています。「いいひとで、やさしいけども、なにもできない、やらない」という人たちが組織の上に多すぎる今の日本の閉そく感を破っていくには、ある程度の剛腕も時には必要になるだろうから。また、彼個人が表で目立ちますが、彼にはかなりのブレーンがいるのではないかと想像します。そのブレーンたちをうまく活用できているのではないか?

ボクには役所や電力会社のものごとの進め方も「独裁」に見えます。顔が見えるひとりの人間の「独裁」か、集団による匿名の「独裁」かの違いはありますが。