イギリスの「器の大きさ」に感心した。

ヨーロッパの公共施設、美術館や図書館の建物の一部に、その国の文化に貢献した知識人たちの胸像や銅像を飾っているところが多くあります。ガリレオであったり、ニュートンであったり、あるいはヴォルテールであったり。東京でも、日比谷公園や皇居に、日本の歴史的人物の銅像がいくつかあります。

さて、BBCのニュースで、ガンジーの銅像がイギリス国会の周辺の空間に、リンカーン、ネルソンマンデラの銅像についで建てられることになったというニュースに感心しました。(→BBC

イギリスの国会の外に、イギリスの政治家たち(たとえば、チャーチルやディズレーリー)に加えて、リンカーンやマンデラの銅像があることを知りませんでした。リンカーンもマンデラもイギリス国民ではありません。その人たちの銅像を、国会の横の空間に飾るのです。もちろん、リンカーンはかつてイギリスの植民地であったアメリカの大統領であり、マンデラはイギリス連邦加盟国である南アフリカの政治家で、イギリスと関係の深い国の人たちです。

ガンジーは、イギリスの植民地政策への抵抗運動のリーダーだった人間です。その人間の銅像が、イギリスの政治の中心の場の近くに置かれるという意味。

ガンジーも、マンデラも、リンカーンも、人類の普遍的な価値を実現しようとした人物でした。彼らの目指したもの、彼らが求めた理想を、過去の「恩讐」を超えて評価するというところに、イギリスの器の大きさを感じました。

国際的なPRという意味でも、イギリスにとって、とても賢い政策だなと思いました。「我が国は、これら人類普遍的な理想を追い求めた人物たちに敬意を表するのだ」というメッセージ。

日本も、海外の人たちに勲章をあげていることは知っています。でも日本の勲章制度にはあまり感心しない。戦後、日本国土への大空襲を指揮したアメリカ空軍の将軍に、わけのわからない理由をつけて、勲一等旭日章をあげるなんて。

日本の理想ってなんなのだろうか?それが平和主義であり、国際貢献であるのなら、日本人であるか、外国人であるかを問わず、銅像でもなんでもいいのだけど、日本国内の公共空間に、その人たちを讃えるモニュメントを作ってみてはどうだろうか?たとえ今日本がいがみ合っている国の人物であったとしても、文句なしに世界で称賛される人物であるのなら、彼らの銅像があったとしてもいいのではないかどうか?若き慰安婦の銅像を、自国内だけでなく、アメリカという日本の兄貴分の国に「告げ口」をするような感じで銅像を建てていこうとする国よりも、ずっと大人の行動ではないだろうか?

いつか日比谷公園や皇居の回りに、日本の偉人たちにならんで、世界の偉人たちの銅像が列ぶ空間があったとしたら、世界からどのような評価を受けるだろうか?

小国ではダメですか?

Wカップが始まってからは、普段ほとんど見ないテレビで、朝5時からの試合を観戦しています。
昨日のコスタリカ対オランダ戦は、今回の大会の試合の中でももっとも熱くなった試合でした。英語でいうところのunderdog(日本語では、勝ち目の薄い人、勝利の見込みがない人)を判官びいきする傾向のある僕は、コスタリカを応援しました。

コスタリカって、大会前の試合で、日本に負けましたよね?!でも、大会が始まってからは、堅守の中、着実に得点を重ねベスト8まで進み、とても印象に残りました。GK以外では特に印象に残った選手はいないのだけど、チームとしては記憶に残る活躍。

新聞記事の見出しには、「コスタリカ_無敗の敗者。番狂わせの主役、120分守り抜いた」。

日本人の好きな言葉に、「身の程を知れ」っていうのがあると思うのですが、日本チームって、自分たちの強さ、弱さをよくわかっていたのだろうか?サッカーは、自己の記録を競う体操や水泳とは違って、柔道やバスケットボール同様、相手との取っ組み合いの中で勝負が決まるわけで、「自分たちのサッカーができない」のは、どのチームにとっても大なり小なり当てはまるはず。だからこそ、「身の程を知った」上で、相手相手によって、戦い方を変えていくことが必要になる。

まあ、素人の僕がこんなことを言ってもしょうがないのですが!

日本は明治以来、富国強兵、立身出世主義でこの150年くらい走ってきたわけで、まず太平洋戦争での敗北で、そして20年ほど前のバブル崩壊で、馬脚を見せたはずなのに、今の総理は飽きもせずに大日本帝国の復活をめざしているような気配。

でも、この150年の日本の歴史って、2000年の長い時間の中で、どちらかというと例外的な時間だったのではないだろうか?
特に戦後の日本の経済力は、信じられないほどの幸運の中(東西冷戦下、軍事費を節約し、アメリカ市場への輸出に注力していくことで、ひたすら経済力を研いた時代)で達成されたもので、ほかの国々が教育に力を入れ、工業力をつけてくるにつれ、日本の相対的な力はどんどん低下してきたのが、この20年だった。

足るを知ること、身の程を知ること。日本人が好きな言葉のはずなんだけど、それらを良しとせず、世界ナンバーワンを目指そうという声が時に感情的に出てくる。

決して楽をしようなんていうのではないけども、自分たちの国の地理的限界、風土、文化。そういうものをよく理解した上で、なにがわれわれにふさわしい目標で戦略なのかをよく考えた方がいいと思うのです。

1980年代、アメリカの学者の本のタイトルを心から信じていた日本人はそう多くないと思います。たしかに一部の分野では世界を席巻した商品を開発したのだけど、そんな会社に働く社員の生活は会社の売り上げや利益とは違って、決して世界有数ではなかった。「世界一の日本」なんてタイトルの本がでようとも、80年代、90年代も、そして今21世紀になっても、われわれ日本人の生活水準は世界のトップ5どころか、トップ10にも入っていないというのが、僕の実感です。
80年代、90年代前半までの、あれだけ経済が成長していた頃でさえも、日本人の生活は決してうまく行っていたわけではなかった(反論があるなら、日本の家を欧米の住宅事情と比べてみればいい)。

アメリカと同じような都市空間を持ち、生活をしようと思っても、そもそも無理なんだから。この狭い国土の中で、どうやって快適に暮らしていけるのかを、よく考え直した方がいい。(そういう意味で、いまの東京はもう限界に達している。まったく良くならない通勤地獄。あの時間だけで、毎日、どれだけ多くのエネルギーが浪費されていることか。)
大学は東大、スポーツは甲子園、生活はアメリカン、経済はグローバル。そんな立身出世主義から卒業して、ある意味、もっとしたたかな、小国としての目標や戦略があってもいいのでは?

コスタリカじゃないけど、負けないゲームを目指したい。
会社経営も同じ。

最後に僕の価値観みたいなものを書いておきます。僕は、個々人の生活が一番大切だと思っています。個人主義を信じる経営者でありたいです。

diversity (ダイバーシティ)、本気?!

東京都議会で、ゲスとしかいいようのない女性蔑視のヤジを飛ばした自民議員(複数?)にみるように、日本での男女の平等の実現は、はるか彼方にあるように思う。男女の同権をホンネでは望んでいない男たちがまだまだこの国の支配層には多いように見える。

「ダイバーシティ」(人材の多様性)のことを口にする企業人、政治家、役人が増えているけども、本気でやる気があるのだろうか?
先日、朝日新聞で、日本IBMはアメリカ本社にならって、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランヴェスタイト)が差別を受けることがないように、人事部に担当者をおいているというインタビュー記事を読んだ。日本IBMに勤めている友人の話でも、本気になって取り組んでいるということで、さすがだなと感心した。
ダイバーシティと口にするのは簡単なんだけど、本気でやるガッツを持っている日本企業、日本の経営者なんて、非常に少ないという気がする。

今日、BBCのHard Talkというトーク番組で、著名な経済史の教授がでていた。「彼女」の名前を聞いたのも初めてだった。その方が学者として以外にも、53歳で男性から女性への性転換を行った人だということで話題になった人だということを、番組の終わり頃に番組の司会の話で知って、びっくりした。シカゴ大学、エラスムス大学(オランダ)などで教えていた人で、論文や著作品もたくさんある。そのうちのいくつかは日本語にも訳されている。学者としても非常に評価の高い方のようだ。

日本で、たとえば東大の先生が、性転換を行ったあとにも、教授として教え続けることができるのか?NHKがその教授が性転換をしたあとにも、看板番組の一つに出演してもらって、その方の専門分野でのご意見を拝聴する度量があるのか?(視聴者や保守系政治家たちからのクレームにも毅然とした態度で接することができるのか)

口先で人材のダイバーシティを言うのは容易いのだけど、本気にやろうと思うと、ものすごくエネルギーを使いそうだ。

Deirdre McCloskey ホームページ
Deirdre McCloskey(Wikipedia)

『原点は夢_わが発想のテクノロジー』(佐々木正著)

もとシャープ副社長。日本のITベンチャーの育成という意味で、最大の貢献者のひとりなのではないかと思います。
今年100歳になられる方。戦前1938年に京大を卒業されたあと、ドイツ留学をされ、戦後はアメリカで幅広い人脈とビジネス経験を広げていかれた、いま風に言うと、まさにグローバルな人材。こういうスケールの大きな方が、「サラリーマン経営者」にもいたのかと、感心しました。
この本は14年前の2000年に出版された著者80代半ばの頃の本ですが、いま読んでも非常に的確かつ建設的な分析と提案が含まれています。「出る杭は打たれる、出ない杭は腐る」という言葉を紹介されていますが、まさに出まくって、何度も打たれながらも結果で、まわりの批判するだけの連中をギャフンと言わせてきた方と拝見しました。
日本企業や日本社会の問題点に関する指摘には、まったく同感のご意見ばかり。著者のこれら指摘は、この本が出た頃以上に当てはまるところもあり、日本の問題の根深さをあらためて感じます。(硬直化した日本人、日本の制度!)

アマゾンで古書を買いましたが、このような本が絶版になっていることはとても残念だと思いました。

かぜで大病院に行く人、成分を確認せずに薬をのむ人。

昨日、医療情報サービス分野のベンチャーを立ち上げている知人が、数年ぶりに近況報告に来てくれた。
ご本人も医学部をでた医者で、ここ数年は会社を経営している。最初に立ちあげた会社を売却し、新たに立ち上げた会社でやろうとしていることを聞かせてくれたのだけど、世間話程度に、日本の患者の「民度」に関する話をいくつか聞かされた。

1風邪を引いたからといって、大学病院に行くような人がいるのは日本くらい。大病院ではそのような患者は歓迎しない。個人経営の病院は風邪程度の患者が経営を支えていて、ある意味、そのような患者の奪い合いがある。
2先進国の多くでは風邪であれば市販薬を飲み、しっかり休む(寝る)ことが治療方法だとされている。
3市販薬の成分をちゃんと確認する患者があまりにも少なすぎる。自分が飲んでいる薬の成分を説明できない人が圧倒的。風邪薬であれば、数種類の成分の組み合わせにしか過ぎない。
4成分の組み合わせによっては、「劇薬」にもなりうるので注意が必要。
5サプリメントにいたっては、もう滅茶苦茶な話が多すぎる。

そういうことを「民度」というのではないかと思うのだけど、すべてを国や会社任せにしないで、「自分のことは自分でやる」という教育を小さい頃からちゃんとやらないものだから、結果、勉強(仕事)だけやっていれば、その他のこと(家事から始まって政治等々まで)は考えない、考えなくてもいい、さらには考えない方が身のためだというくらいの人が多くなっているのかな。

税金にしても、会社が国に代わって給料から徴収し、個人に代わって納税するものだから、給与所得者の多くは給料の明細表に書かれた数字を目で見るだけで、実際の税金の「重さ」を感じている人は非常に少ない。自分の給料からどれだけ税金払っていてそれらがどのように使われている(浪費されている)のかを知ることも、自分の体の中に入れる薬の成分を確認することも、同じように大切だと思う。

自由のないところに継続的な経済的発展はないだろう。

与党が秘密保護法案を無理に通過させようとしています。
ノンポリのクロイヌですが、この法案には絶対反対。
言論の自由、報道の自由、思想・信条の自由。それらは人権を担保する条件で、自由闊達な社会の前提条件。
長期的にみたとき、人権が尊重されず、自由のないところに継続的な経済発展はないだろうと思う。

『「世界で戦える人材」の条件』(渥美育子著)

日経ビジネス(2013年8月12・19日号)の書籍紹介のページで知った本。グローバル人材に関する議論にはウンザリしていることもあって、はじめはこの書籍紹介のページもはしょって読んだのだけど、著者の以下のような発言を読んで、強く関心を持った。

「(日本の)経営者が人材育成にあまり興味がないことが気がかりです。人事部門に任せきり。人事も自分の任期中には変化を起こしたくない人が多い。海外赴任前に少しグローバル人材教育をするだけでお茶を濁しているように思います。」

すぐに同じビルにあるクロイヌ御用達の本屋でこの本を買ってみた。PHPビジネス新書。岩波新書じゃないよ、PHPビジネス新書。

期待以上の本だった。学者の本ではないので(岩波じゃないよ!)、文章や論理には荒さはあるかもしれないけども、グローバル化が進行する現在の世界のルールも、なにをすべきかということも、ほとんどの日本人はわかっていない、という彼女の言っていることには同意する。

この本の中で、僕の中で強く残ったいくつかの言葉ある。
そのひとつは、「大きな器」と「日本サイズの心」。

「私たちは、日本で生まれ、育ち、教育を受け、仕事に就くことで、自覚症状がないままに日本の現実を受け止めるのにちょうどよいサイズの心、日本サイズの心を育ててしまっている。」(103ページ)

以前、シリコンバレーで長く働いていたある知人(日本人!)がこんなことを言っていた。「金魚鉢のなかにいる限りは、金魚にしかなれない。」 確かに美しい金魚もいいだろうけども、僕は「大きな器」を持ちたいとずっと希望してきたように思う。問題はもっと強くそう願い、その実現のために、もっと行動していくこと。

この「大きな器」ということばは、以下のようなメッセージでも使われていて、それは日本の大学教育にもヒントになるようなメッセージだ。

『大事なのは、「大きな器」をもつことなのだ。一番大きな器をまず獲得し、そのあと徐々に知識や知恵の詰まった引き出しをたくさん作っていく。日本の大学では、こうしたリベラルアーツをほとん学ばない。体系的に学ばないために単なる知識として終わっている」(154ページ)

著者は人材育成に関するコンサルティング業を、アメリカで長年にわたっておこなってきたという実績がある。世界中の人たちといっしょに仕事をしてきたようだから、単にアメリカではこうですよ、って話ではない。

若い頃、アイオワ州立大学のクリエイティブライティングのコースに参加したことがあると本の中で紹介されている。もともとは、文学を目指していたのだろうか?アマゾンでチェックすると、同じ著者名で、『シルヴィア・プラスの世界』なんてタイトルがあるけど、同じ著者なのだろうか?

グローバル化というような話の中で、以下のような表現がとても新鮮に思えた。

「グローバリゼーションが持つパワーは、内から拡張していく力、つまり自国から外に出ていき他の国と関わりを持つ拡大する力expansion と、宇宙から見た地球という微細な存在の認識、つまり考えられないほど広大な宇宙の中に無数に存在する天球の一つが地球であるという理解が同時存在するところにあると、私は個人的に捉えている。」(72ページ)

僕は政府や企業が先導しようとする「グローバリゼーション」は信じていない。グローバリゼーションは、一人ひとりのこころや姿勢からスタートするものだと思っている。それが個人主義ということでもあるだろうし。

あまり期待していなかったからということもあるけど、この一冊の本をさかなに、日本のグローバル化についてさまざまな議論ができる、いい意味で、controversialな本。多くの人に読まれることを期待。

ふたつの「出入り禁止」

先週ネットで読んだニュースで、いやだなと腹の底から思ったニュースが、ふたつあった。別々の話なのだけど、そのふたつはまったく同じテーマであって、僕ら日本人が一番関心を持たないといけないことだと、僕は思っている。

ひとつは時の最高権力者が所属する政党が、ある報道機関が公平性を欠く報道をしているとして、出入り禁止を言い渡したこと。それに対して、その報道機関は、「指摘を受けたことを重く受け止める。今後一層公平、公正に報道していく」という詫び状を出すことで、「お許し」を得たこと。

もうひとつは、ある経営者が、自社の株価に関連して、消極的なレポートを書いたアナリストに対して、きちんとした分析に基づいたレポートではないとして、「出入り禁止」を一方的に公言したこと。その会社は自社の情報公開に関して、積極的かつ公正に行ってきたのか、その点に疑問を持つアナリストたちもいるというのに。

このふたつのケース、どちらもいま最も乗りに乗っていて、「我が世の春」を謳歌していると見られる権力者たちが、自分たちが気に入らない情報を流す報道機関あるいは証券アナリストを押さえつけようとする行動とも見える。

報道機関も、証券アナリストも、彼らの役割はまったく同じだ。権力者(経営者)と選挙民(投資家)の間にたって、情報公開や情報分析に役立つ存在であることを使命としている。彼らの仕事が雑であったり、公平性を欠くのであれば、われわれ選挙民(投資家)が判断して、彼らのサービス(提供される情報)を買わない、あるいは見なければいいだけだ。権力者たちに判断してもらう必要はない。「権力は腐敗する」という歴史の法則のもと、権力者たちのチェックをおこなうべきジャーナリストやアナリストという人たちの存在は、しっかりと守られないといけないし、彼らはきちんとした情報分析を通して、われわれ選挙民(投資家)の支持を得る努力を継続してもらいたい。

ふたつの「出入り禁止」は、別の意味でも結びついている。経営者は、時の権力者に近づくことで自社の利益を最大化しようとする。
先週読んだふたつの「出入り禁止」の記事が、これからの日本を暗示するものではないことを、祈る。

社会インフラも老齢化。

日本の老齢化は人口だけでなくって、道路や橋などの社会インフラもだということを、いろいろな人たちから聞いています。先日八ツ場ダム反対ということを再度書きましたが、決してすべての公共事業に反対しているわけではなく、必要な公共事業と不要な公共事業、費用と効果が見合った公共事業とまったく見合っていない公共事業を区分けし(仕分けし)ていく必要があると思っています。

首都圏を中心とする社会インフラ、たとえば橋、トンネル、高速道路などは東京オリンピックを控えた1950年代後半から1960年代前半に作られたものが多くあって、それらは出来上がってからすでに40年から50年の時間が立っています。コンクリートの強度など、もうそろそろ危ない時期に入りつつあるということを聞いています。

ちょうど今日、中央道の笹子トンネル内で、「コンクリート製の天井板が110メートルにわたり崩落し、少なくとも車3台が巻き込まれた」という記事を読んで、まさにこれから多発する可能性がある社会インフラの老齢化現象の一例かと思ってしまいました。これからは新規の公共事業よりも既存の社会インフラの維持管理だけで、ますます多額の予算が必要になるはずです。

ポラリスプロジェクト日本代表の話を聴く。

昨晩のことですが、ポラリスプロジェクト・ジャパン代表の藤原さんをはじめとする関係者によるプレゼンテーションをお聞きし、世界の人身売買の実態を伝える30分程度のドキュメンタリー映画を見たあと、1時間ほど議論する集まりに参加しました。

日本は人身売買に関する議論が低調な国のようで、先進国の中で、人身売買を禁止する法律がないという意味で、非常に「遅れた」国だと聞きました。

藤原さんは日経ビジネス・オンラインアエラなどで紹介されたようですが、この組織が掲げるミッションと比べ、日本社会、あるいは政府からの支援は、あまりにも小さすぎるような印象を持ちました。

ポラリスプロジェクト・ジャパンのHP