先生たちだってミスをおかすことはあるから。

海外の取引先の人で、マレーシアから短期的(一年間)にアメリカの本社に勤務している人と話をしていて、「一般的にアジアの教育はどうして教師から生徒への一方的な講義に終始しがちなのだろうか?」という話題になりました。彼の10歳になる娘は、アメリカの学校に転校になった当初は、積極的に自分の意見を表明することを期待されることに戸惑っていたけれども、現在ではそのやり方にかなり慣れ、授業の中で、自分の意見や希望を積極的に話すようになったということでした。

大学に入ってもそうですが、日本の学校教育のやり方は、先生が一方的に話し、生徒はひたすら板書をとり、記憶するという方式が主流でした。現在はどうなっているのでしょうか?

このやり方の弊害はあまりにも大きすぎます。素直で権威に弱い、正解がある世界でのみ安心しがちな人間を作ってきたのではないか?

日本の学校教育の弊害として、間違いをおかすことを非常に恐れる学生を作り続けているということが言われます。
いわく、間違いをおかすことを恐れる、突飛も無いことを考えようとしない、正解ばかりを求め、冒険をしようとしない、と。

それと同時に、先生たちも、生徒たち同様、間違いを恐れ、安全に自分たちの「権威」を守ることができる範囲でのみ、教員としての職務を遂行しようとしているのではないか?という気がするのですが、いかがでしょう。

同じマニュアル、同じ指導要領で、文科省の言う通りにやっている限りは、モンスターピアレンツから指弾を受けるような危ない橋を渡ることはないでしょう。特に「いい大学」に入るための受験勉強を指導している限りは、親からも歓迎され、大きな間違いを犯す危険もありません。受験指導に熱心な先生は大いに父兄から歓迎されるのではないでしょか。

でも世の中が必要とする人材も変わり、日本の有名大学を出たからといって、必ず活躍できる、いい思いをするとは限らない時代になりました。

問題は複雑になり、必ずしも正解があることばかりではなくなっています。それどころか、正解が見えない、正解があるのかどうかさえもわからない時代になっています。

のびのびとした、個性豊かで、自分の意見をしっかり持った生徒をもっと作りたいのであれば、実は先生たちから始めないといけないのではないか?と思っています。少々の間違いに萎縮するのではなく、間違いから学び、前例のない新しいことにも挑戦するように。すべての問題への正解を知っている訳でもないのだし、知らないことはたくさんあるはず。でもそんなことは認められない立場にあると、自分の間違いや弱さを隠すようになります。(原子力村の住人たち、霞ヶ関の住人たちにも、同じようなことが言えるかもしれない)

最近の学生は内向きで海外にも出たがらない、リスクをとりたがらないという話をよく聞くのですが、そんな学生たちは、彼らの周りの大人たち(両親や教師たち)の鏡なのではないかと思います。親や教師たちが冒険をしないのに、どうして子供たちが冒険するのか?

そんな意見を持っているので、実は文科省のあるプロジェクトの「応援メッセージ」として、「親や国を捨てろ」という、ちょっと過激な意見を書きました。
GiFT応援メッセージ

自由闊達な日本にならないものか。生徒たちだけでなく、先生や両親、会社員、霞ヶ関の官僚たち、そして政治家たちも、もっとのびのびと仕事ができないものか。多くの日本人が汲々として、クレームを受けないように、クビにならないように、ひたすら正解がわかっている守備範囲でのみ、仕事を無難にこなそうとしているように見えてしょうがないです。