女川原発を「救った眼力」

3月7日の東京新聞は、女川原発が福島第一原発とは対照的に大事故に至らなかった理由の一つとして、元副社長らによる慎重な設計があったという記事を載せています。原発関係者の記事は、原発村住人たちがどれだけ酷いかという記事が多い中で、このようなしっかりした考えを持った人がいたという記事を読むと、新鮮に感じました。

記事によると、東北で生まれ育った東北電力の副社長だった平井弥之助さんは、一号機建設時、強行に「高さ15メートル」を主張。そのおかげで、昨年の震災時、女川原発は大事故を免れたという話です。1986年にお亡くなりになられているようですが、人の評価は死ぬまで定まらないどころか、死後、何年も経ってあらためて再評価されるといういい例ではないかと思いました。

後輩の方(といっても、現在82歳の元東北電力社員)によると、平井さんは常々、「法律は尊重する。だが、技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる」とおっしゃっていたそうです。

この記事の最後には、こんなコメントがあります。
「設計をすべて米国企業に委ね、『想定外』の津波対策を怠った福島第一と女川の違いは、東北の津波を甘く見なかった先人の眼力の差だった」

与えられた環境と歴史的位置をふまえ、自分の頭でしっかり考える人だけがいい仕事をすることができるのだと思います。

追記
今回、初めて平井さんの存在を知り、ウェブ等でこの方に関する文献がないか、調べてみましたがまとまった情報が見つかりません。ひとつ、平井さんに関する「逸話」のようなものを載せている、元建設省の方の文章を見つけました。(→HP)その文章を読むと、平井さんが持っていた「スピリット」や「生き様」をかいま見る思いがしました。

以下、そのHPからの引用です:

東北電力に平井弥之助と言う副社長で水力屋の怪物が居た。話によると、平井弥之助氏が、女川原発設計当時、津波の高さを考え、反対を押し切って海水面より14.8m以上に設置位置を変更させたという。事実、津波発生時、避難民の待避場所として使用される程のレベルであつた訳だ。平井氏はまた、また液状化等と言う考えが普及していなかった時代に火力発電所の基礎設計に、その対策として、周りの地下数十mの深さに四角形の壁を設け、後に起きた大地震に耐えたと言う話も窺ったことがある。ついでに私にとって平井氏に忘れられない話がある。私が水力課長の頃、電力を主体とする総合開発ダム計画(ダム高さ113m、出力75MW)を平井氏に持ちかけたことがある。そのとき平井氏は「国と一緒に仕事をして損することがあっても得する事はない」と言って断られた。私はそのために、企画庁を中心にして関係各省間で総合開発の費用負担の方法を政令で決めたのであるから、そんな心配はないと説得したが、納得をえられなかつたことがある。結局これは建設省によって建設された。平井氏は私に言わしめれば、企業人として全て総ての責任を守ると言う一徹さに尊敬に値する電力奇人のひとりである。今にして思うと、最近の八ん場ダムや川辺川ダムの経緯ように”完成時期”と”工事費の増額”に無関心な国の仕事に事業家としての責任感が追い付いて行けなかったのだろうと推測する。 
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