経済人と民主主義

元大手商社の副社長をやっていた人間が、時の政権の権力者のひとりの推薦で国営放送の経営トップになり、「政府が左というのに、右ということはできない」と、大本営発表をよしとする考えを示し、言論の自由、報道の自由よりも政府の友だちであることを優先させようとしています。
先日も、九州で発生した地震の被害に関連して、鹿児島の川内原発に関して国民の不安を駆り立てないために、NHKは政府の公式発表にそって報道するようにと、社内で指示していると報道されました。

日本は西側先進国のメンバーとして、民主主義、自由、人権尊重といった価値観を共有していると、政治家たちも経済団体の人たちも口にするのだけど、報道の自由、言論の自由に関しては、本音ではあまり大切だとは思っていない印象。

BBCの番組で、イギリスのEU脱退を支持する経済人をインタビューする番組を見ていて、そのビジネスマンが「民主主義は経済的繁栄の前提条件だ。北朝鮮よりも南朝鮮、東ドイツよりも西ドイツ、南米よりも北米が繁栄したのは民主主義の有無の結果だ」と、議論としては一部荒っぽいことを言っていたのですが、「きれいごと」だとしても、そのことを自論の根拠として強く信じているように見えました。
欧米、特にアメリカ、イギリスの経済人たちは、ホンネでは面倒だなと思っているのかもしれませんが、民主主義が経済的な繁栄、イノベーションなどの必須条件であることをしばしば口にします。

どうしてリーダー的立場にある日本の経済人たちは、民主主義、報道の自由、言論の自由が、経済的な繁栄のために重要な要素であると主張しないのか?

絶対貧困と相対貧困

午前中偶然なんだけど、移動中のクルマのなかで、ほんの数分だけ、国会中継(参議院予算委員会)を見る機会があった。 前川 清成(民主)という議員が日本の貧困状況に関して質問し、総理大臣あるいは厚生労働大臣が回答するのだけど、総理または厚生労働大臣が、相対貧困の定義あるいはその求め方について、はっきりとは理解していないことが伺えた。厚労大臣は日銀出身でお勉強ができる方だと思っていたけど、その方が役人にサポートしてもらいながらも、正面から質問に回答できない様を見るのは、ちょっと残念だった。

相対貧困の話は統計の知識が問われる話でもあって、あらためて統計の知識の大切さを実感した。(だから「ビジネス統計スペシャリスト」を受けましょう、という宣伝ではないけどね)

僕自身、相対貧困のもとめ方は知らなかったので、以下のような情報をみて、にわか勉強をしています。

貧困率よくある質問(厚労省HP)

相対的貧困率等に関する調査分析結果について (内閣府、総務省、厚労省)

相対的貧困率とはなにか(雑誌「ビッグイシュー」HP)

国会中継なんて好んで見ることはないけども、大切な情報源なのは確か。
このようなサイト(→国会TV)には頑張ってもらいたい。

「規制の虜」(黒川清著)

副題は「グループシンクが日本を滅ぼす」。グループシンクはgroup thinkのこと。
この本はどういう本かと簡潔に言うと、「日本を代表するエリートによる、既得権を守ることに四苦八苦するエリートへの批判と絶望の書」というところか。
著者は国会が作った福島原発の事故調査元委員長。その経験をもとに書かれた本。東大医学部卒、カリフォルニア州立大学医学部教授、東大医学部教授、日本学術会議会長、等々の経歴。

まっさきにこんな文章で始まるのだから絶望的になってくる。

「志が低く、責任感がない。自分たちの問題であるにもかかわらず、他人事のようなことばかり言う。普段は威張っているのに、困難に遭うと我が身かわいさからすぐ逃げる。これが日本の中枢にいる『リーダーたち』だ。政治、行政、銀行、大企業、大学、どこにいる『リーダー』も同じである。日本人は全体としては優れているが、大局観をもって『身を賭しても』という真のリーダーがいない。国民にとって、なんと不幸なことか。福島第一原子力発電所事故から5年が過ぎた今、私は、改めてこの思いを強くしている。」

この本のなかにはふたりの例外的な日本人があげられている。朝河貫一、山川健次郎。彼らの残した業績はもっと広く紹介され勉強されるべきでは。特に隣国との関係が悪化し、過去と同じ蹉跌を歩もうとしているかに見えるいまの時代、1909年に出された朝河貫一の日本への警告(「日本の禍機」)はもっと読まれるべきでは。

日本のシステムが変わらない限り、これから本当に優秀な日本の若い人たちは東大なんかにはいかないのではないかと思う。あるいは日本の大学を卒業したとしても、活躍の場を日本以外に求めていくのではないだろうか。

問題はいまのシステムを変えるにはどうすればいいのかということになる。
そのためには、この本のなかで、何度も先生が使われている「独立した個人」が日本に増えていくことに尽きるように思う。group thinkではなく、independent think。

「真実という鏡」

今日の朝日新聞「ニュースの本棚」のコーナーに、言語学者の田中克彦先生が文章をお書きになっていた。大学時代の好きだった先生の一人。「大学と人文学の伝統」というテーマの文章。人類学の鳥居龍蔵(1870ー1953)と東洋史学の前嶋信次(1903−83)の紹介をされたあと、J.S.ミルが講演(「大学教育について」)でおこなった以下のような趣旨の警告を紹介されている。

「自分自身と自分の家族が裕福になることあるいは出世すること」を「人生最高の目的」とする人たちに大学が占領されないよう、絶えざる警戒が必要である。

そして田中先生は、以下のようなメッセージで文章を終えられている。

「今の日本の政治を担う人たちは、かつて大学生であったとしても、大学が学生に与えるべき最も大切な経験ー真実という鏡の前で自らの精神のくもりに気づくという知的・心的経験を一度として味わわなかったのであろう。だからこそ、もうからない人文学を大学から追放しようという、先人の築いた日本の伝統を破壊へと導きかねない発想が表れるのであろう。」

時として「真実という鏡」の前に立つことを必要とするのは大学生だけじゃない。

円安を希望する亡国論者。

円安で得をしている企業は日本全体で一体何割程度なのか?国全体としてみたときには円高の方がいいに決まっているのに、相も変わらず円安希望の企業人がいることに、うんざりしてしまう。株式市場も、円安になるとプラスの反応を見せたりする。これにも、うんざりする。
金利もゼロがいいという企業人がいて、なにを言っているんだと言いたくなる。
資産家たちは、海外にカネを動かしているというから、彼らも円安を歓迎するのだろうか。せっかくドルに換えたのだから、ドル高の方が気持ちはいいだろうし。

ゼロ金利と円安のお蔭で、日本経済の非効率は温存されたままで、新陳代謝はいっこうに進まない。結局、構造改革を行うことは、人を切ることにつながるので、だれも嫌われ役なんて演じたくない。経営者(企業)も、政治家(国家)も、人を切ってうれしい人なんていやしない。だから構造改革はなかなか進まず、組織はじわじわと沈んでいく。

切られた人は教科書的に言えば、再訓練を受けて、成長分野に移動していくべきなんだけど、人間年取ってくると勉強する気力も体力もなくなるし、変にブライドだけは高くなってゼロから再スタートするなんてことは、そう簡単にはできなくなる。

今日、ある会合でエコノミストの話を聴いていて、最後に「企業をいい意味で揺さぶるには円高しかないのでは?」と質問したところ、「自国通貨が値上がりして滅びた国家はない」と賛成のお答えをいただいた。

いつかきっとこんな日が来るのではないかと思う。日本国内に十分な貯蓄がなくなり、海外からのカネに頼らなくてはいけない。そのために、円がいかに有利な通貨であるかという宣伝を国をあげてしなくてはならない日が。そのときになって、円高こそ日本にとって望ましいことだと、なるのだろう。その前に、延命のためにひたする円安を望んでいた企業はとっくになくなっているだろうけど。

sin/cos/tan

鹿児島県知事が、「女子教育で三角関数を勉強していったいどんな役に立つのか」と発言したとか。
日頃、口にしなかったとしても、心に刷り込まれた事がぽっと口に出てしまったのか?
「ラ・サール→東大法学部→霞ヶ関」のエリートも、一皮めくると、イスラムのガリガリ親父と変わらないようなことをおっしゃっている。
ご家族はお嬢さんがお二人いらっしゃるようだけど、進学校から有名大学でしょうか?三角関数もたくさん勉強されたくち?

地下鉄を利用する時、「女性専用車両」の電車に遭遇するたびに「日本って、みんなが思っている以上に、イスラム圏に近いんじゃないかな?!」って、思ってしまう。もしかして、ケースによっては、イスラム圏よりも、もっと男尊女卑が強いかも。すべての日本男子がそうだとは思わないけども、年配の方たちの中には、ちょっと理解しがたいほど男尊女卑の方もいらっしゃる。

憲法24条は以下の通り:
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

保守派の方たちは、この24条もあまりお好きではないのかもしれないけど、日本国憲法のなかで、一番大切な思想の一つだと思う。
この草案を作ったベアテ・シロタ・ゴードンはとても素晴らしい仕事をしたとも思う。彼女の伝記はとても面白かった。僕ら日本人は、もっと彼女のことを知っておいた方がいい。
「1945年のクリスマス」

歴史を大切にすること、寄付行為、帰属意識。

あることがあってこんなことを考えています。

日本人は過去の歴史をすぐに忘れてしまう、特に都合の悪いこと。それはきっと他の国の人たちも、大なり小なり同じことが言えるのだろうと思う。加害者としての歴史は時に国家の力の誇示と栄光に結び付けて語られることがあるくらいだし、他国に与えた苦痛は忘れて、被害者としての出来事ばかりを繰り返して語ることが多いのは日本人だけではないのかもしれない。それでも日本人はあまりこの点に関しては、決して自慢できるような生徒ではないように思う。

国という大きなレベルよりも実はもっと大切な歴史がある。

それは自分という人間の歴史。そもそも一番身近に感じる歴史は自分自身が物ごごろついてから起こったこと。
多くの人は過去の出来事について、写真をはじめとして、ちょっとした記念品など、思い出として大切にしていることだろう。
それも自分の歴史を記憶して留めておきたいという願いの現れ。

それで寄付がこの歴史を大切にするということとどう関係するのか?

自分が「お世話になった」と思っている経験があるとすると、その経験は自分一人でできたものではなく、他の人たちによって可能だったはず。例えば、学校。留学もまた一つの例になる。

個人の歴史を大切にする、大切に思っている、ということを示す「表現方法」として、とても強い意志表示になるのが、「命の次に大切」だとも言われる(という人さえもいる)「身銭」を提供する(寄付する)ことなのではないか?

ここで、金額の多寡は2次的なことで、大切なことは1000円であっても、3000円であっても、身銭を切るということ。(一食分が500円というのであれば、500円)

日本人は寄付しないという。アメリカなどと比べて、寄付行為は非常に低調だと言われている。

現在ある自分を作ってくれた経験を提供してくれた組織が寄付を求めているとき、まったく寄付に参加しないということと、歴史(さまざまにある「歴史」の中で一番大切な「自分の歴史」!)を大切にしないということは関係ないと言えるだろうか?

過去の体験(=自分の歴史)はいろいろな意味で現在につながっているし、実は将来へも伸びている。自分の歴史は自分の家族の歴史につながり、さらには自分が生まれ育った町へとつながっていく。

いまの日本人の帰属意識の薄さ、低調な寄付行為、そして歴史意識の低さ。そういうことは複雑系のように絡み合っているように思えてならない。

イギリスの「器の大きさ」に感心した。

ヨーロッパの公共施設、美術館や図書館の建物の一部に、その国の文化に貢献した知識人たちの胸像や銅像を飾っているところが多くあります。ガリレオであったり、ニュートンであったり、あるいはヴォルテールであったり。東京でも、日比谷公園や皇居に、日本の歴史的人物の銅像がいくつかあります。

さて、BBCのニュースで、ガンジーの銅像がイギリス国会の周辺の空間に、リンカーン、ネルソンマンデラの銅像についで建てられることになったというニュースに感心しました。(→BBC

イギリスの国会の外に、イギリスの政治家たち(たとえば、チャーチルやディズレーリー)に加えて、リンカーンやマンデラの銅像があることを知りませんでした。リンカーンもマンデラもイギリス国民ではありません。その人たちの銅像を、国会の横の空間に飾るのです。もちろん、リンカーンはかつてイギリスの植民地であったアメリカの大統領であり、マンデラはイギリス連邦加盟国である南アフリカの政治家で、イギリスと関係の深い国の人たちです。

ガンジーは、イギリスの植民地政策への抵抗運動のリーダーだった人間です。その人間の銅像が、イギリスの政治の中心の場の近くに置かれるという意味。

ガンジーも、マンデラも、リンカーンも、人類の普遍的な価値を実現しようとした人物でした。彼らの目指したもの、彼らが求めた理想を、過去の「恩讐」を超えて評価するというところに、イギリスの器の大きさを感じました。

国際的なPRという意味でも、イギリスにとって、とても賢い政策だなと思いました。「我が国は、これら人類普遍的な理想を追い求めた人物たちに敬意を表するのだ」というメッセージ。

日本も、海外の人たちに勲章をあげていることは知っています。でも日本の勲章制度にはあまり感心しない。戦後、日本国土への大空襲を指揮したアメリカ空軍の将軍に、わけのわからない理由をつけて、勲一等旭日章をあげるなんて。

日本の理想ってなんなのだろうか?それが平和主義であり、国際貢献であるのなら、日本人であるか、外国人であるかを問わず、銅像でもなんでもいいのだけど、日本国内の公共空間に、その人たちを讃えるモニュメントを作ってみてはどうだろうか?たとえ今日本がいがみ合っている国の人物であったとしても、文句なしに世界で称賛される人物であるのなら、彼らの銅像があったとしてもいいのではないかどうか?若き慰安婦の銅像を、自国内だけでなく、アメリカという日本の兄貴分の国に「告げ口」をするような感じで銅像を建てていこうとする国よりも、ずっと大人の行動ではないだろうか?

いつか日比谷公園や皇居の回りに、日本の偉人たちにならんで、世界の偉人たちの銅像が列ぶ空間があったとしたら、世界からどのような評価を受けるだろうか?

小国ではダメですか?

Wカップが始まってからは、普段ほとんど見ないテレビで、朝5時からの試合を観戦しています。
昨日のコスタリカ対オランダ戦は、今回の大会の試合の中でももっとも熱くなった試合でした。英語でいうところのunderdog(日本語では、勝ち目の薄い人、勝利の見込みがない人)を判官びいきする傾向のある僕は、コスタリカを応援しました。

コスタリカって、大会前の試合で、日本に負けましたよね?!でも、大会が始まってからは、堅守の中、着実に得点を重ねベスト8まで進み、とても印象に残りました。GK以外では特に印象に残った選手はいないのだけど、チームとしては記憶に残る活躍。

新聞記事の見出しには、「コスタリカ_無敗の敗者。番狂わせの主役、120分守り抜いた」。

日本人の好きな言葉に、「身の程を知れ」っていうのがあると思うのですが、日本チームって、自分たちの強さ、弱さをよくわかっていたのだろうか?サッカーは、自己の記録を競う体操や水泳とは違って、柔道やバスケットボール同様、相手との取っ組み合いの中で勝負が決まるわけで、「自分たちのサッカーができない」のは、どのチームにとっても大なり小なり当てはまるはず。だからこそ、「身の程を知った」上で、相手相手によって、戦い方を変えていくことが必要になる。

まあ、素人の僕がこんなことを言ってもしょうがないのですが!

日本は明治以来、富国強兵、立身出世主義でこの150年くらい走ってきたわけで、まず太平洋戦争での敗北で、そして20年ほど前のバブル崩壊で、馬脚を見せたはずなのに、今の総理は飽きもせずに大日本帝国の復活をめざしているような気配。

でも、この150年の日本の歴史って、2000年の長い時間の中で、どちらかというと例外的な時間だったのではないだろうか?
特に戦後の日本の経済力は、信じられないほどの幸運の中(東西冷戦下、軍事費を節約し、アメリカ市場への輸出に注力していくことで、ひたすら経済力を研いた時代)で達成されたもので、ほかの国々が教育に力を入れ、工業力をつけてくるにつれ、日本の相対的な力はどんどん低下してきたのが、この20年だった。

足るを知ること、身の程を知ること。日本人が好きな言葉のはずなんだけど、それらを良しとせず、世界ナンバーワンを目指そうという声が時に感情的に出てくる。

決して楽をしようなんていうのではないけども、自分たちの国の地理的限界、風土、文化。そういうものをよく理解した上で、なにがわれわれにふさわしい目標で戦略なのかをよく考えた方がいいと思うのです。

1980年代、アメリカの学者の本のタイトルを心から信じていた日本人はそう多くないと思います。たしかに一部の分野では世界を席巻した商品を開発したのだけど、そんな会社に働く社員の生活は会社の売り上げや利益とは違って、決して世界有数ではなかった。「世界一の日本」なんてタイトルの本がでようとも、80年代、90年代も、そして今21世紀になっても、われわれ日本人の生活水準は世界のトップ5どころか、トップ10にも入っていないというのが、僕の実感です。
80年代、90年代前半までの、あれだけ経済が成長していた頃でさえも、日本人の生活は決してうまく行っていたわけではなかった(反論があるなら、日本の家を欧米の住宅事情と比べてみればいい)。

アメリカと同じような都市空間を持ち、生活をしようと思っても、そもそも無理なんだから。この狭い国土の中で、どうやって快適に暮らしていけるのかを、よく考え直した方がいい。(そういう意味で、いまの東京はもう限界に達している。まったく良くならない通勤地獄。あの時間だけで、毎日、どれだけ多くのエネルギーが浪費されていることか。)
大学は東大、スポーツは甲子園、生活はアメリカン、経済はグローバル。そんな立身出世主義から卒業して、ある意味、もっとしたたかな、小国としての目標や戦略があってもいいのでは?

コスタリカじゃないけど、負けないゲームを目指したい。
会社経営も同じ。

最後に僕の価値観みたいなものを書いておきます。僕は、個々人の生活が一番大切だと思っています。個人主義を信じる経営者でありたいです。

diversity (ダイバーシティ)、本気?!

東京都議会で、ゲスとしかいいようのない女性蔑視のヤジを飛ばした自民議員(複数?)にみるように、日本での男女の平等の実現は、はるか彼方にあるように思う。男女の同権をホンネでは望んでいない男たちがまだまだこの国の支配層には多いように見える。

「ダイバーシティ」(人材の多様性)のことを口にする企業人、政治家、役人が増えているけども、本気でやる気があるのだろうか?
先日、朝日新聞で、日本IBMはアメリカ本社にならって、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランヴェスタイト)が差別を受けることがないように、人事部に担当者をおいているというインタビュー記事を読んだ。日本IBMに勤めている友人の話でも、本気になって取り組んでいるということで、さすがだなと感心した。
ダイバーシティと口にするのは簡単なんだけど、本気でやるガッツを持っている日本企業、日本の経営者なんて、非常に少ないという気がする。

今日、BBCのHard Talkというトーク番組で、著名な経済史の教授がでていた。「彼女」の名前を聞いたのも初めてだった。その方が学者として以外にも、53歳で男性から女性への性転換を行った人だということで話題になった人だということを、番組の終わり頃に番組の司会の話で知って、びっくりした。シカゴ大学、エラスムス大学(オランダ)などで教えていた人で、論文や著作品もたくさんある。そのうちのいくつかは日本語にも訳されている。学者としても非常に評価の高い方のようだ。

日本で、たとえば東大の先生が、性転換を行ったあとにも、教授として教え続けることができるのか?NHKがその教授が性転換をしたあとにも、看板番組の一つに出演してもらって、その方の専門分野でのご意見を拝聴する度量があるのか?(視聴者や保守系政治家たちからのクレームにも毅然とした態度で接することができるのか)

口先で人材のダイバーシティを言うのは容易いのだけど、本気にやろうと思うと、ものすごくエネルギーを使いそうだ。

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