『戦争のなかで考えたこと(ある家族の物語)』

先日101歳でお亡くなりになった日高六郎の著作の一つ。
中国の青島で生まれ、旧制高校から東京帝大を卒業する間、学校の休みには青島にある実家に帰省していたこと、日本の言語空間に制約されることなく、日本と中国の間を行き来しながら、保守的であるが中国人に親愛的な考えを持っていた父との会話から考えを深めていったことなど、作者の成長の過程において影響を与えたさまざま出来事について、たいへん興味深く読みました。

作者の本はほかにはあまり読んだ記憶がありませんし、この方に関して、さまざまな評価があるようですが、この本に関して言うと、たいへん読みやすく、また現在の日本の東アジアにおける困難な状況を歴史的なバックグラウンドから、的確に指摘されているように思います。たいへん共感を持ったとも言えます。この本の中で指摘されている日本敗戦の原因は、残念ながらいまも変わらず残っているどころか、だんだんと強くなっているように感じます。

この半自伝的な作品を読んでいて思ったのですが、この作品を基に映画を作ってみると面白い作品になるのではないかと思いました。

芝園団地(川口市)

昨日の朝日新聞「Globe」にあった「芝園団地」(川口市)に関する記事は、外国人を受け入れることはどういうことなのか(どういうことが起こりうるのか)を考えるための、とてもいい教材だと思いました。記事を書いたGlobeの副編集長自身、この竹園団地に住んでいて、外国人住民が半数を占めるこの団地で経験するさまざまな摩擦を紹介しています。外国人住民の大半は中国人ということです。古くから住む日本人たちは高齢化が進み、新しく入ってきた外国人家族たちとは、同じ団地内に住んでいたとしても、ふたつのグループは交わらない二つの世界を形作っているということでした。
ワシントン特派員として10年アメリカに滞在した記者の方が率先して体験される日本国内の外国人との摩擦の記事は、たいへん興味深いお話でした。

「日本軍兵士_アジア・太平洋戦争の現実」(吉田裕著)

昨年末に出版された本ですが、ベストセラーになっているようです。
特攻隊やインパール作戦の悲惨さはもちろんですが、前の戦争の日本軍兵士が経験した実態のひどさ、悲惨さは想像以上です。一例をあげます。戦争が終わった後にも悩まされたという水虫の話。泥沼のようなところを、軍靴を脱ぐこともできず、半年も1年も這いずり回っていた兵士の足がどんなにひどい水虫にかかっていたのか、想像しただけでも恐ろしくなってきます。
著者の吉田先生は、近現代政治史、軍事史の研究者。
著者は1944年から敗戦までを「絶望的抗戦期」と名付けています。この期間中に、兵士を含む日本人戦没者310万人の約9割がなくなっていると推定され、年次別の戦没者を公表しない政府を非難されています(アメリカは年次別どころか、月別の死亡者も発表)。そのようなデータを発表することに、何か不都合があるのでしょうか?「知らしめず」という日本の伝統か?

『「日本人」といううそ』(山岸俊男著)

『信頼の構造』で日経・経済図書文化賞をとった山岸先生が、一般読者むけに書かれた、「武士道精神は日本を復活させるか」という副題を持つ本。
図書館で借りてきた本ということもあって、流し読みをしていたら、途中でジェイン・ジェイコブスの話がでてきて、それからはマジで読みました。(先日のブログで紹介した、あの、ジェイン・ジェイコブスです)
ジェイン・ジェイコブスは人間には二種類のモラルがあって、ひとつは、市場のモラル、もうひとつは統治のモラルとしています。山岸先生は、ジェインのいう市場のモラルは、日本では「商人道」であり、統治のモラルは、「武士道」であると置き換えています。このふたつを混乱させることは最悪の結果をもたらすとしていて、まさにいまの日本の状況がそれではないかと、されています。
現政権は、意識的にでしょうか、それとも無意識なのでしょうか、このふたつの混乱を積極的に進めているように見えます。精神論ではなく、仕組みやルールで、「情けは人の為ならず」という社会を作っていくことが大切だというのが山岸先生のご意見。別の本(『きずなな思いやりが日本をダメにする』(長谷川眞理子、山岸俊男著)でも、政治家や役人たちが、精神論に偏っていて、サイエンスを理解していないので困るという趣旨のことを、お二人で強調。とくに長谷川先生は、政府の各種委員会に呼ばれることが多い方なので、実体験からのご発言)

以下、市場の倫理と、統治の倫理の概要。
市場の倫理:
暴力を閉め出せ
自発的に合意せよ
正直たれ
他人や外国人とも気やすく協力せよ
競争せよ
契約尊重
創意工夫の発揮
新奇・発明を取り入れよ
効率を高めよ
快適と便利さの向上
目的のために異説を唱えよ
生産的目的に投資せよ
勤勉なれ
節倹たれ
楽観せよ
統治の論理:
取引を避けよ
勇敢であれ
規律遵守
伝統堅持
位階尊重
忠実たれ
復讐せよ
目的のためには欺け
余暇を豊かに使え
見栄を張れ
気前よく施せ
排他的であれ
剛毅たれ
運命甘受
名誉を尊べ

詳細は、『市場の倫理 統治の倫理』(ジェイン・ジェイコブス著)を。

「百術有りと雖も一清に如かず」

「日本の大学は東大か、東大以外に分けられる」ということは、ずっと前から言われています。霞が関で働くエリート官僚は圧倒的に東大卒が多く、特に東大法学部卒、せいぜい経済学部卒。以前、いろいろな経緯があって某省の事務次官になった地方国立大学卒の女性がいらっしゃいましたが、例外中の例外ではないでしょうか。
今朝の天声人語にいい言葉が紹介されているなと思いました。
「百術有りと雖も(いえども)、一清に如かず(しかず)。」平安時代能吏として活躍した橘良基(たちばなのもとよし)の言葉だそうです。「治国の道」を聞かれ、百のわざを駆使するよりもひとつの清さが大切だと答えたとか。
学校の勉強ができるから、公務員試験に上位で合格したからと、学校を卒業して何十年も経ってからも、そんなことを自慢している「頭でっかち」で志もすり減ってしまったエリートたちに支配される国民の一人として、この国のこれからのことを時々悲観的に考えてしまいます。

現政権に同意する(数少ない)政策のひとつ

ぼくはそもそもそれほど政治的意識の高い人間でもなく、だれが政権を握っていてもケチをつけるばかりの人間で、現政権の仕事の進め方や目指す方向にはあまり感心しないことが多いのですが、首都圏にこれ以上大学生を呼び込むことを制限しようとする政策には賛成です。東京は4年間の大学生活を送るにはあまりにも刺激が多すぎるように思いますし、生活費等も高すぎるのではないかと思っています。
自分自身がいまもう一度大学生をやることができれば、東京の学校にはいかないです。仕事で全国各地を訪問する機会に恵まれましたが、京都、金沢、仙台、札幌、長野あたりがいいなと思っています。大都市圏だったら、名古屋かな。身近に豊かな自然が多いことは絶対条件の一つ。
東京に出てきたのは、大学進学が理由で、こちらでの生活は40年ほどになろうとしています。確かに仕事をやっていくには東京はある意味最高の場所です(日本国内で)。

こんなことを急に書いているのは、日経新聞のコラム「春秋」に、走り出したら止まらないのが日本の政治と役所の問題だという例として、東京一極集中に歯止めをかけようとして、23区内の大学の定員増を抑えようとする政策があげられていました。この政策は、「乱暴な施策」で、「都市部の大学をいじめる」もので、その結果、「みんな横並びになりかねない」というのです。
ちょっと感情的になっていませんか?と言いたくなったのですが、どうして23区内の定員増を抑えようとすることが、横並びになるのか?それに横並びになる「みんな」って、誰のこと?

この筆者がこのコラムで書かれているように、「官による統制」にはぼくも大反対なのです。
でも、日本の東京一極集中、東大を頂点とする大学のヒエラルキーに対する信仰は、相当な荒治療をしないと変わらないのではないでしょうか。そのくらいこのふたつは、明治以来日本人を洗脳していきましたから。
自分のライフスタイルに「逆参勤交代」を取り入れたいと思っていますので、できれば一年のうち半分くらいは東京以外で時間を過ごしたいです(まだなかなかできそうもありませんが)。毛沢東が行って大混乱を起こした「文化大革命」。こんなことを書くとなにバカ言ってるのと非難されそうですが、「文化小革命」くらいやらないと、地方創生はなかなか進まないように思います。

「近代日本150年」(山本義隆著、岩波新書)

最近読んだ本で一番面白かった明治維新以降の日本史の本。「科学技術総力戦体制の破綻」というのが副題。国家主導の科学技術振興政策を続け、戦争を行なっていない時でさえも、国民総動員的な体勢で富国強兵に努めてきた日本の科学技術体制の限界が、大東亜戦争での敗北、さらには福島原発の事故によって露わにされるプロセスをたどっている。

日本に関係ないところで、以下のような記述がとても面白かった。
「18世紀後半から19世紀初めにかけてのイギリス産業革命の過程で、蒸気機関の発展による動力革命と紡績産業の機械化が達成されるが、その過程にオクスフォードとケンブリッジは何の寄与もしていない。」(27ページ)
「彼ら(発明家たち)が発明に熱中したのは、学問的関心からではなく、基本的には職人気質とでも言うべき、物づくりにたいする本能的な熱意に突き動かされたものであり、そして同時に、すでにこの時代には発明の成功が富に結びつく可能性を特許制度が保証していたからに他ならない。そして競合するいくつもの新技術のうちでどれが優れているかは、市場によって判定された」(29ページ)
これを読んですぐに思い浮かんだのは、スティーブ・ジョブスであり、ジェームス・ダイソン。そしてなかなかうまく行かない政府の産業政策。

宿毛湾

湾先週末、母に会いに高知に帰省。泊まった宿の部屋からはこんな景色が見られます。三陸地方や伊勢志摩と同じように湾はリアス式。沖合には、沖ノ島という離島があります。まだ一度も行ったことがありませんので、春になれば行ってみようと思います。日本の地方はどこもきれい。地方の自然は変わることなく季節を繰り返していくけど、人の世界は老いていくばかり。今日はオフィスに高知放送の東京支社の人たちが新年の挨拶に来てくれました。この一年で高知との関わりが急激に増えました。

『消えたヤルタ密約緊急電』(岡部伸著)

この前から『不毛地帯』(山崎豊子著)を読みはじめています。新潮文庫で全5巻の長編ですが、著者の取材力と構想力、週刊誌に連載されていた読みやすさもあり、読み進めています。『不毛地帯』は、この物語のモデルになったと言われている瀬島龍三に関心があって読んでいるのですが、その瀬島が影の主人公の一人になっている話が産経新聞の記者である岡部さんが書かれたノンフィクションが『消えたヤルタ密約緊急電』。

副題(「情報士官・小野寺誠の孤独な戦い」)にあるように、情報士官だった小野寺信が掴んだヤルタ密約に関する情報を、時の権力の中枢にあった大本営参謀部本部作戦課(その中心人物が瀬島龍三)が握りつぶしたという話。希望的観測に基づいて自分に都合の悪い情報は聞かないで済まそうとするエリート達の多いことか。

また、著者の以下のような指摘は、現在には当てはまらないのだろうか?
「それにしても、強硬派の軍人を抑えて終戦を実現させた宰相として評価が高い鈴木首相だが、ソ連と指導者スターリンに対する甘い認識には驚愕するばかりだ。国家の指導者が、強国ソ連にすがって終戦の端緒をつかもうとして、「スターリンは西郷隆盛に似たところがあり、悪くはしないような感じがする」と見当違いの幻想を抱いていたとしたら、これほど悲しく滑稽感の漂う着想はないだろう。独ソ不可侵条約が締結され、「欧州情勢は複雑怪奇なり」と内閣総辞職した平沼騏一郎以来、日本の指導者の国際感覚の欠如は、目を覆うばかりである」(402ページ)
またこんな指摘もある。
「早くから戦後を見据えて領土拡張と共産主義のアジアへの浸透の戦略を立てていたソ連の強かさに比べ、客観情勢を無視してご都合主義で暴走した日本外交がいかに視野狭窄であったか」(426ページ) 恥も外聞も無いスタンスでトランプにのめり込む今の政権は視野狭窄になっていないのだろうか?

著者のあとがきによると、勤務先の産経新聞から出版しようと申し入れたのだけど、具体化せず、結局新潮選書として出すことになったとあります。著者は、不都合な事実は握りつぶした参謀本部の動きは、今の時代の原発村の権力者たちの行動にも見られるという指摘をしています。そんな指摘が権力者に近い産経新聞のトップの人たちには受け入れ難かったのだとすると、産経新聞も同じ穴のなんとかということになり、残念な話だと思いました。

無責任体質はいまも変わらない。

久しぶりにテレビを見た。「戦慄のインパール」(NHK)。自信がないくせに威勢のいいことを言って兵隊たちを鼓舞し、彼らを死ぬことが確実な戦い方に追い込み、自分は生き抜いた将校たちの多いこと。特攻隊の前にもうすでに相手の戦車に爆弾を抱えて突っ込ませる作戦を実行していたのだから、兵隊の命をなんとも思わないのは日本軍の悪しき伝統か。
今日も靖国に行った政治家たちからは深い思想や理念、歴史観のようなものが伝わってこない。万が一、戦争が起こったとしても、戦いで死ぬのは自分たちの役割だとは到底考えることはないだろう。日本の権力者たち、あるいは権力機構に属する人間集団の無責任体質は今も変わっていないように思う。
指導する立場にあった人間たちの責任は、戦勝国よりもまず国内で責任を問われるべきだろうに。