「アメリカにようこそ!」
posted at 2012.01.21
今月初め、アメリカに仕事で数日行きました。初日の夜から翌日お昼にかけて、10年以上おつきあいある方といっしょだったのですが、初めて会った彼のお孫さんから写真のようなプレゼントをもらいました。こんなプレゼントって、素敵だと思いませんか?!
posted at 2012.01.21
今月初め、アメリカに仕事で数日行きました。初日の夜から翌日お昼にかけて、10年以上おつきあいある方といっしょだったのですが、初めて会った彼のお孫さんから写真のようなプレゼントをもらいました。こんなプレゼントって、素敵だと思いませんか?!
posted at 2011.12.16
先日、52回目の誕生日を迎えました。友人、知人からお祝いの言葉やプレゼントをいただき、とても感謝しています。通常であれば、プレゼントを贈ったり、贈られたりすることで、とても幸せな気持ちになります。
実は、これまではずっと年を取ることも決して悪くないと思っていたのですが、今年の誕生日にはあまりうれしい気持ちになれませんでした。
今年起こった震災で2万人近い人たちがなくなり、自分が住んでいる町も被災地となったこと。自分自身は決して大きなけがをしたとか、生死に関わるようなことが身に降り掛かった訳ではないのですが、3月11日以降日本で起こっていることから来るさまざまな想いが、ずっと心の重りとなっているのかもしれません。
また、52ともなると、「中高年の危機」のまっただ中ということでもあるのかもしれません。両親や先生方を含む、過去お世話になった方がたも、確実に年老いていきます。自分が年を取ることは、その方たちの年齢も「押し上げている」ことに気づいた時、彼らだけでも時の流れからほっておいてもらえないだろうかと、ふと思ってしまいます。
今年は生き死にのことを考えさせられることが多くありました。そんなこともあって、今年の誕生日にはあまり晴れやかな気持ちになれなかったのかもしれません。
posted at 2011.11.24
かつて、日本を代表する評論家だった小林秀雄がこんなことを言っている。
「実行をはなれて助言はない。そこで実行となれば、人間にとって元来洒落た実行もひねくれた実行もない、ことごとく実行とは平凡なものだ。平凡こそ実行の持つ最大の性格なのだ。だからこそ名助言はすべて平凡に見えるのだ。 (作家志願者への助言)
日本を代表する野球監督、落合博満が11月22日に行った退任会見でこんなことを言っている。
「普通のことをやらせることができるかどうか。継続してやろうと思ったら、基本に忠実に。だから、書く側も見る側もおもしろくない。こつこつが一番の近道だし、現実的。私の中で、らしい野球というのは普通のことを普通にできるかどうか。考えている次元が違う。当たり前のことを当たり前にやるのが、一番難しい」
落合と小林秀雄はまったく違う時代に、まったく異なる世界で仕事をしてきた人たちだけど、同じことを言っている。
posted at 2011.10.06
仙台のお取引先を訪問した帰りの新幹線の中でジョブス死去のヘッドラインニュースを見ました。今、オフィスに帰って机の上で、ロイターのニュースを見ています。以下のスティーブ・ジョブスの言葉を、これからも、くり返し、読み返していきたいと思います。(スタンフォードで行ったStay hungryスピーチは、もう50歳を過ぎた人間には、あまりにもまぶしすぎます。)
「自分が近く死ぬだろうという意識が、人生における大きな選択を促す最も重要な要因となっている。外部のあらゆる見方、あらゆるプライド、あらゆる恐怖や困惑もしくは失敗など、ほとんどすべてのことが死の前では消え失せ、真に大切なものだけが残ることになる。やがて死ぬと考えることが、自分が何かを失うという考えにとらわれるのを避ける最善の方法だ。自分の心に従わない理由はない」。
posted at 2011.09.22
黒犬通信の黒犬ギャラリーにあるクロイヌのイラストは、村田さんというプロのイラストレーターに、我が家のカイをモデルに作っていただいたもので、オデッセイコミュニケーションズが買い上げた作品です。イラストをご覧いただけばすぐに気づいていただけると思いますが、murataさんのサイン入りです。
このクロイヌのイラストを、無断でツイッターとブログに使っている人がいることを知りました。ご本人には、間接的に連絡を取っていますが、無断でイラストを使用することは中止いただきたいです。またクロイヌのイラストは、黒犬通信とオデッセイコミュニケーションズのグッズでのみ使用しますので、どのような理由があろうと、使用を許可することはありません。
繰り返しますが、無断使用を中止いただくようにお願いします。
posted at 2011.07.25
ブリスベーン国際空港のラウンジにいます。YPO国際フォーラムのためにブリスベーンで2泊しましたが、深夜便で帰国します。(シンガポールで乗り継ぎ)
ノルウェーであった乱射事件が、移民問題に発しているという報道を読んで、24年前、ビジネススクールを卒業した後のヨーロッパ旅行中、ノルウェー出身の同級生のご両親宅にお世話になった時のことを思い出しました。どうして移民の話しになったのか、前後の文脈はまったく記憶していませんが、同級生のお父さんが言ったことが記憶に残っています。
「大量の移民を受け入れることには反対です。ノルウェー社会の中で、彼らの多くが成功したとしたら、ノルウェーの人たちの嫉妬の対象となるから。反対に、彼らが社会にとけ込むことなく、経済的にも失敗したとしたら、彼らはノルウェー社会の中でお荷物になるから。移民たちが成功したとしても、失敗したとしても、社会に新しい問題を作ってしまいます。大量の移民を受け入れることには反対です」と。
誤解のないように書いておくと、同級生のお父さんは非常に穏健な、「真っ当な」、普通の方だと思いました。決して、人種差別主義などに与するような人ではないと。そのような方が、大量の移民を受け入れることには注意した方がいいという素朴なご意見をお持ちになっていたこと、そのご意見はすべての社会にある程度当てはまるご意見かもしれないこと。そう思ったからこそ、僕の記憶に残っているのかもしれません。
同級生のご両親がまだご健在だとしたら、今回の事件について、ご意見をお聞きしてみたいと思います。
posted at 2011.06.22
先日、社内で社員の人たちに紹介した言葉。
疾風は激しく吹く風のことで、勁草は強い草。出典は後漢書の王覇伝。
自分に従って来た者達が次第に離散していく状況に劉秀が慨嘆して述べた言葉。
過去2年間小社もスポンサーとして加わっていたアビスパ福岡は、開幕から勝ちがない状況。今夜の試合も、浦和に0−3で負けたとHPで知りました。
そんなアビスパの関係者の皆さん、選手の皆さんに、この言葉をお贈りしたい。「困難に遭ってはじめてその人間の本当の価値、本当の強さが分かる」という意味のこの言葉を。いや、アビスパの皆さんだけでなく、自分自身にも言い聞かせている言葉です。
レイソルも、今夜はホームで、ガンバに2−4で完敗だったようですから、レイソルの皆さんにも同じく、この言葉をお贈りしたいです。
そして最後に、われわれの国、日本にも、この言葉を。
posted at 2011.05.28
今日の朝日新聞朝刊、「神話の陰に_福島原発40年」の4回目を読んで、カネの誘惑にはそう簡単に勝てないのだなと思った。内容は、福島県双葉町が原発マネーのおかげでうるおい始め、いつしか「小さな町なら負担の重さにためらうような」投資を行い、「どんどん生活はよくなった」のだけど、「原発バブル」はいつまでも続くわけではなく、「いったんタガの緩んだ財政規律は戻らず」。ついには、第二の夕張になることを避けるために、再度「原発マネー」を引き出すために、原発増設要望決議を町議会は可決(91年)、というようなこれまでの歴史を紹介した記事。
この記事の中で、前福島県知事の佐藤さんは、原発マネーに依存し、原発の増設を繰り返す自治体を、「麻薬中毒者のようだ」とも言っている。
福島の原発の話ほど大きなことではなくても、それまで質素に暮らしていた農家が、公共事業のために田畑を売って入った現金を、パチンコやら飲み食いやらに使い果たし、借金そして家族崩壊なんて話は、全国至る所で聞く話だ。
朝日の記事を読みながら、この前Financial Timesで、We spend money we do not own on things we do not need. というような表現を読んだのを思い出した。
東京電力の肩を持つつもりはないし、今、他府県の避難所でたいへんな思いをしている原発地元の人たちをせめるようなことを言う意図ではまったくないけども、東電の地元対策を行ってきた担当者たちは、カネの力で変わっていく人たちを見てきたことだろうから、いまは口にしなくとも肚には言いたいことがあるのではないかと想像する。原発を誘致した市町村のひとたちも、当初は危険に敏感であっただろうに、カネがもたらしてくれる「豊かさ」に、その感覚もだんだんなくなり、いつの間にか、「依存症」になっていったのかもしれないなと想像する。
「カネと色」がすべてだとは決して思っていないし、それだけの人生ではないと思っているけども、われら凡夫の人生は「カネと色」が原因になった事件や事故が多いと思う。原発をめぐる人間模様にも、「カネと色」の話はたくさんありそうだし。
だから、自分が仕事をして稼いだカネならまだしも、もともとないカネを、特別必要もないモノに使うなんてことはやらないことだとあらためて思う。いつかきっと身を滅ぼすから。
posted at 2011.05.07
金曜日(5月6日)は休みをとったので、僕にとってのGWは明日で終わり。
昨日、長野県の安曇野に私用があって訪問(安曇野のことをもっと知りたいと思っている。できればここに長期滞在してみたい)。お会いした方と安曇族の話題になって、昔の人は現代人と違ってよく歩き回ったし、われわれからは想像もできないほどの体力があったという話になった。(安曇族は北九州から、いま、安曇野と言われているエリアに来て開拓した海人たち)安曇族は1000年、2000年というような過去の存在かもしれないけど、江戸時代の松尾芭蕉だって、ものすごい歩行力だった。
現代の秀才たちは、北九州から安曇野まで船と足で移動した人間たちが持っていた「動物としての能力」が、完全に退化してしまっている。それは、秀才たちだけでなく、すべての現代人なんだけど、秀才たちの場合には特にそれが問題になる。彼らは、霞ヶ関や東電のような巨大権力組織の上に立ち、われわれ庶民の生活を左右するような意思決定をする立場にあるから。
今回の東日本大震災のような自然相手の闘いの場合を見ればよくわかる。自然と闘っていくには、予定調和の世界でいくら優秀であろうと、まったく歯が立たないことを今回ほど示しているケースはない。(アメリカと対峙するにも、日本の学校でお勉強ができる程度では張り合っていけないけども)
小さい頃から温度調節された人工空間で、答えがあるお勉強を行ってどれだけ優秀であっても、自然相手には手も足も出なかった。想定外のことが続き、自分たちが作り出した原子力という手強い相手との闘いは、いつ、どのようにして終わるのか、その結末はまったく見えてこない。
僕の勝手な意見なんだけど、正解のない問題、先生のいない状況の中で、どうやってベストと思われる解を求めていくか。それには、動物的能力を持っていないといけないのではないかと、ずっと思っている。だからエリートの人たちには、ここちよい大手町や霞ヶ関の空間だけでなく、電気も水道も通っていないような空間、野生の空間で自分を鍛えてほしいと希望している。
動物としての能力は、体力的なことの他にも、暗闇の中や出会いがしらで危機を察知する力、想像力、現場感覚などいろいろとあるはずだ。それらと、学問的な能力というか知識というか、その両者を持たないと、これからのビジネスも政治もだめなんだろうと思う。(敗戦直後の人たちは、僕らよりも、ずっとそのような力を持っていたのではないか)
「想定していませんでした」という言葉を聞くたびに、人工空間で育った日本のエリートのひ弱さを感じる。あるいはひ弱さだけでなく、知的体力のなさから来る怠惰かもしれない。東京の平和で快適な空間から一歩もでないような人たちから、安心してくれと言われても、まったく信用も信頼もできない。
原子力に関して言えれば、それなしで本当にやっていけるのか、懐疑的に思っている。少々危険であったとしても、快適な生活は捨てがたいという意見は、そう簡単にはなくならないのではないか(すべての電力消費には「三部の理」があるようだから、どれだけ人間を堕落させるだけのビジネスや商売であったとしても、電力消費の権利はあるのだろう)。だからこそ、原発推進派の政治家や財界人たちには、「想定外」なんて言っている暇があれば、福島の現場に飛んでいって動物的な現場感覚を磨いてほしい。利権を嗅ぎ付ける感覚を磨くのと同じくらいの熱意で、お願いしたい。