今日から2月。

1月も終わってしまいました。先月は短期のアメリカ出張があり、そして先週27、28日には鹿児島、熊本のお取引先を訪問。写真は、iPhone で撮った桜島です。望遠レンズがあればもっと迫力ある写真がとれたのですが、ズームのデジカメを持っていくのを忘れていました。
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さらにひどいことに、リコーのデジカメで撮った写真を間違って消去してしまい、熊本で撮ったお取引先の写真をすべて失ってしまいました。とても残念です。

熊本には去年から何冊か著書を拝読している在野の歴史家(日本近現代史)、渡辺京二が住んでいます。熊本では移動の時間を利用して、渡辺さんの最新刊「未踏の野を過ぎて」を読了。

鹿児島、熊本は3年ぶりの訪問でしたが、またあまり間をあけずにお伺いしたいところです。

今年の冬も朝、皇居一周ウォーキングを続けています。この前、東京に雪が降ったときには、こんな雪だるまが千鳥ヶ淵公園にありました。(これもiPhoneで撮影)

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仕事も忙しいので(「貧乏暇なし」というやつです)、残念ながら、今シーズンはまだ「永遠のビギナー」のスキーにも行っていませんが、一度くらいは雪の中を這いずり回るスキーをやってみたいです。

今月も元気にやっていきましょう!

「アメリカにようこそ!」

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今月初め、アメリカに仕事で数日行きました。初日の夜から翌日お昼にかけて、10年以上おつきあいある方といっしょだったのですが、初めて会った彼のお孫さんから写真のようなプレゼントをもらいました。こんなプレゼントって、素敵だと思いませんか?!

明けましておめでとうございます。

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2012年が皆さんにとっていい年になりますように。
僕も、健康に気をつけながら、自助自立の精神を忘れず、社業に励んでいきたいです。(写真は、札幌・羊ヶ丘のクラーク博士銅像)

うれしくない誕生日

先日、52回目の誕生日を迎えました。友人、知人からお祝いの言葉やプレゼントをいただき、とても感謝しています。通常であれば、プレゼントを贈ったり、贈られたりすることで、とても幸せな気持ちになります。

実は、これまではずっと年を取ることも決して悪くないと思っていたのですが、今年の誕生日にはあまりうれしい気持ちになれませんでした。

今年起こった震災で2万人近い人たちがなくなり、自分が住んでいる町も被災地となったこと。自分自身は決して大きなけがをしたとか、生死に関わるようなことが身に降り掛かった訳ではないのですが、3月11日以降日本で起こっていることから来るさまざまな想いが、ずっと心の重りとなっているのかもしれません。

また、52ともなると、「中高年の危機」のまっただ中ということでもあるのかもしれません。両親や先生方を含む、過去お世話になった方がたも、確実に年老いていきます。自分が年を取ることは、その方たちの年齢も「押し上げている」ことに気づいた時、彼らだけでも時の流れからほっておいてもらえないだろうかと、ふと思ってしまいます。

今年は生き死にのことを考えさせられることが多くありました。そんなこともあって、今年の誕生日にはあまり晴れやかな気持ちになれなかったのかもしれません。

小林秀雄と落合博満

かつて、日本を代表する評論家だった小林秀雄がこんなことを言っている。

「実行をはなれて助言はない。そこで実行となれば、人間にとって元来洒落た実行もひねくれた実行もない、ことごとく実行とは平凡なものだ。平凡こそ実行の持つ最大の性格なのだ。だからこそ名助言はすべて平凡に見えるのだ。 (作家志願者への助言)


日本を代表する野球監督、落合博満が11月22日に行った退任会見でこんなことを言っている。

「普通のことをやらせることができるかどうか。継続してやろうと思ったら、基本に忠実に。だから、書く側も見る側もおもしろくない。こつこつが一番の近道だし、現実的。私の中で、らしい野球というのは普通のことを普通にできるかどうか。考えている次元が違う。当たり前のことを当たり前にやるのが、一番難しい」

落合と小林秀雄はまったく違う時代に、まったく異なる世界で仕事をしてきた人たちだけど、同じことを言っている。

スティーブ・ジョブス死去のニュースを聞いて。

仙台のお取引先を訪問した帰りの新幹線の中でジョブス死去のヘッドラインニュースを見ました。今、オフィスに帰って机の上で、ロイターのニュースを見ています。以下のスティーブ・ジョブスの言葉を、これからも、くり返し、読み返していきたいと思います。(スタンフォードで行ったStay hungryスピーチは、もう50歳を過ぎた人間には、あまりにもまぶしすぎます。)

「自分が近く死ぬだろうという意識が、人生における大きな選択を促す最も重要な要因となっている。外部のあらゆる見方、あらゆるプライド、あらゆる恐怖や困惑もしくは失敗など、ほとんどすべてのことが死の前では消え失せ、真に大切なものだけが残ることになる。やがて死ぬと考えることが、自分が何かを失うという考えにとらわれるのを避ける最善の方法だ。自分の心に従わない理由はない」。

クロイヌのイラストを無断で使ってほしくないな。

黒犬通信の黒犬ギャラリーにあるクロイヌのイラストは、村田さんというプロのイラストレーターに、我が家のカイをモデルに作っていただいたもので、オデッセイコミュニケーションズが買い上げた作品です。イラストをご覧いただけばすぐに気づいていただけると思いますが、murataさんのサイン入りです。

このクロイヌのイラストを、無断でツイッターとブログに使っている人がいることを知りました。ご本人には、間接的に連絡を取っていますが、無断でイラストを使用することは中止いただきたいです。またクロイヌのイラストは、黒犬通信とオデッセイコミュニケーションズのグッズでのみ使用しますので、どのような理由があろうと、使用を許可することはありません。

繰り返しますが、無断使用を中止いただくようにお願いします。

ノルウェー乱射事件で思い出すこと。

ブリスベーン国際空港のラウンジにいます。YPO国際フォーラムのためにブリスベーンで2泊しましたが、深夜便で帰国します。(シンガポールで乗り継ぎ)

ノルウェーであった乱射事件が、移民問題に発しているという報道を読んで、24年前、ビジネススクールを卒業した後のヨーロッパ旅行中、ノルウェー出身の同級生のご両親宅にお世話になった時のことを思い出しました。どうして移民の話しになったのか、前後の文脈はまったく記憶していませんが、同級生のお父さんが言ったことが記憶に残っています。
「大量の移民を受け入れることには反対です。ノルウェー社会の中で、彼らの多くが成功したとしたら、ノルウェーの人たちの嫉妬の対象となるから。反対に、彼らが社会にとけ込むことなく、経済的にも失敗したとしたら、彼らはノルウェー社会の中でお荷物になるから。移民たちが成功したとしても、失敗したとしても、社会に新しい問題を作ってしまいます。大量の移民を受け入れることには反対です」と。

誤解のないように書いておくと、同級生のお父さんは非常に穏健な、「真っ当な」、普通の方だと思いました。決して、人種差別主義などに与するような人ではないと。そのような方が、大量の移民を受け入れることには注意した方がいいという素朴なご意見をお持ちになっていたこと、そのご意見はすべての社会にある程度当てはまるご意見かもしれないこと。そう思ったからこそ、僕の記憶に残っているのかもしれません。

同級生のご両親がまだご健在だとしたら、今回の事件について、ご意見をお聞きしてみたいと思います。

「疾風に勁草を知る」

先日、社内で社員の人たちに紹介した言葉。

疾風は激しく吹く風のことで、勁草は強い草。出典は後漢書の王覇伝。
自分に従って来た者達が次第に離散していく状況に劉秀が慨嘆して述べた言葉。

過去2年間小社もスポンサーとして加わっていたアビスパ福岡は、開幕から勝ちがない状況。今夜の試合も、浦和に0−3で負けたとHPで知りました。

そんなアビスパの関係者の皆さん、選手の皆さんに、この言葉をお贈りしたい。「困難に遭ってはじめてその人間の本当の価値、本当の強さが分かる」という意味のこの言葉を。いや、アビスパの皆さんだけでなく、自分自身にも言い聞かせている言葉です。

レイソルも、今夜はホームで、ガンバに2−4で完敗だったようですから、レイソルの皆さんにも同じく、この言葉をお贈りしたいです。

そして最後に、われわれの国、日本にも、この言葉を。

もともとないカネを、必要もないモノに使う。

今日の朝日新聞朝刊、「神話の陰に_福島原発40年」の4回目を読んで、カネの誘惑にはそう簡単に勝てないのだなと思った。内容は、福島県双葉町が原発マネーのおかげでうるおい始め、いつしか「小さな町なら負担の重さにためらうような」投資を行い、「どんどん生活はよくなった」のだけど、「原発バブル」はいつまでも続くわけではなく、「いったんタガの緩んだ財政規律は戻らず」。ついには、第二の夕張になることを避けるために、再度「原発マネー」を引き出すために、原発増設要望決議を町議会は可決(91年)、というようなこれまでの歴史を紹介した記事。

この記事の中で、前福島県知事の佐藤さんは、原発マネーに依存し、原発の増設を繰り返す自治体を、「麻薬中毒者のようだ」とも言っている。

福島の原発の話ほど大きなことではなくても、それまで質素に暮らしていた農家が、公共事業のために田畑を売って入った現金を、パチンコやら飲み食いやらに使い果たし、借金そして家族崩壊なんて話は、全国至る所で聞く話だ。

朝日の記事を読みながら、この前Financial Timesで、We spend money we do not own on things we do not need. というような表現を読んだのを思い出した。

東京電力の肩を持つつもりはないし、今、他府県の避難所でたいへんな思いをしている原発地元の人たちをせめるようなことを言う意図ではまったくないけども、東電の地元対策を行ってきた担当者たちは、カネの力で変わっていく人たちを見てきたことだろうから、いまは口にしなくとも肚には言いたいことがあるのではないかと想像する。原発を誘致した市町村のひとたちも、当初は危険に敏感であっただろうに、カネがもたらしてくれる「豊かさ」に、その感覚もだんだんなくなり、いつの間にか、「依存症」になっていったのかもしれないなと想像する。

「カネと色」がすべてだとは決して思っていないし、それだけの人生ではないと思っているけども、われら凡夫の人生は「カネと色」が原因になった事件や事故が多いと思う。原発をめぐる人間模様にも、「カネと色」の話はたくさんありそうだし。

だから、自分が仕事をして稼いだカネならまだしも、もともとないカネを、特別必要もないモノに使うなんてことはやらないことだとあらためて思う。いつかきっと身を滅ぼすから。