歴史から学ぶー過ちを繰り返さないためには

 アメリカでは公開されているのに、ずっと日本側が知らぬ存ぜぬで通してきた非核三原則と沖縄返還に関する密約にいつての調査結果が今朝の新聞各紙にでていた。最初に思ったことは、「日本って、哀しい国だな」ということ。われわれ国民はいつまでたっても政府や政治家たちと、対等な立場で議論することができない(主権は誰にあるの?)、「知らしめず、寄らしめるべき」存在でしかないのかということがひとつ。役人や政治家たちの行動から、われわれ国民にオープンでないだけでなく、自分たちの意思決定のプロセスや論理を歴史の審判にゆだねる謙虚さと誠実さを持たず、歴史の暗闇の中でこそこそと行い、葬ろうとする姿勢であることが見えることがふたつ。(アメリカ政府が一定の時間を公文書を公開していくのに、日本政府は自分たちに都合の悪いことは消していく。)
 
もしかして、このような調査がおこなわれたことだけでも大きな進歩で、「革命的」なことなのかもしれないから、悲観しているばかりではなく、「未来志向」で考えないといけないのかもしれない。これも政権交代があったことでの日本の政治の進歩というこだろう。

 でも、今日読んだFinancial Times の記事を、密約に対する日本政府の態度と照らし合わせて考えたとき、なんとも言えない残念な気持ちになってしまった。John Kayのその記事は、Regrets? Everyone should have a few. (後悔?きっと誰もひとつやふたつはあるはず。)というタイトルで、後悔してもしつくせない過ちは誰にもあるはずだけど、それにどう向き合うかで、その人が成功するかどうかが決まるというものだった。それほど長い文章でもないから、英語の文章をぜひ読んでいただきたいけど、バフェットにしろ、ソロスにしろ、自分の過ちを認める度量とその過ちから学ぼうとする姿勢があったからこそ、ここまで成功したのではないかという話には、僕のように何度も失敗をしてきているような人間には、考えさせられるところが大いにあった。
 僕を筆頭に凡人は、何度も同じような間違いをしでかす。それどころか、失敗したのは、自分のせいではない、親の責任だ、先生の責任だ、上役の責任だ、あるいは時代の責任だ、日本の責任だなんていう人さえもいる。(そういうことを自分が言っているということに気づいていない人も多い)

 John Kay はニーチェのこんな言葉も紹介している。“ ‘I have done that,’ says my memory. ‘I cannot have done that,’ says my pride, and remains inexorable.” (私の記憶は、私がそれをやってしまったと言っている。私のプライドが、わたしがそんなことをやったはずがないとがんこに言い張る。)そしてJohn Kay はこう続けている。We do not acknowledge our mistakes because we have genuinely persuaded ourselves we did not make them. (われわれは自分たちの間違いを認識しないのだ、なぜなら、われわれは自分たちが間違いを起こさなかったと心から自分たちを説得してしまったから。)このニーチェの言葉は、どこかの国の役人たちのことではないかと思ってしまった。同時に、我々国民の多くも、「お上意識」がなかなか抜けず、国のことを盲目的に信じている人もいる。
 これまでどれだけ多くの過ちが僕ら国民の目から隠されてきたことか。その結果、日本はどれだけ多くの、生きた歴史の教材を捨ててきたことか。ハーバードビジネススクール風にいうと、どれだけ多くのケーススタディの材料を捨ててきたことか。

 John Kayの記事は以下のような一節で終わっている。
Throughout the credit crunch, mistakes were made, by bankers, politicians, regulators. But not by me. George Santayana, the Spanish philosopher, famously remarked that “when experience is not retained, infancy is perpetual. Those who cannot remember the past are condemned to repeat it.” If we learn no other lesson from the events of the past decade, we will be fated to learn that one.
 ざっと訳すと、『この金融危機を通して、多くの間違いが、銀行家、政治家、役人たちによっておかされた。(でも「僕は間違わなかったよ」)スペインの哲学者のジョージ・サンタヤナが言った有名な言葉に、「過去の経験を忘れずに持ち続けないと、幼児のように無知のままの状況がずっと続くことになる。過去を記憶することができない人間たちは、過去の過ちを繰り返すことになる」というものがある。もしわれわれが過去10年間の金融市場における出来事から学ばなければ、われわれは同じ間違いを繰り返すことになるだろう。』
 日本の学校の歴史教育から変えていってもらわないと、「知らしめず、寄らしめるべき」存在の国民が再生産されるだけで、そんな国民しかいない国では、同じ間違いを繰り返すしかないのかなと思う。そしてこの20年間、日本がまったく経済成長することなく、どんどんと地盤沈下していっていることこそ、その「間違いを繰り返している」ことのひとつの現れだと考えた方がいいのではないかと僕は思っている。間違いはいまも目の前で繰り返させれている、と。

Regrets? Everyone should have a few

聞き上手は幸せづくり上手

聞き上手は幸せづくり上手なんじゃないかなと思う。

ゆうべ(2010年2月23日)の日経夕刊一面、「拓くひと」というコーナーに「希望学」に取り組んでいる東大の玄田有史先生が紹介されていた。その記事の中でよかった話。調査対象の釜石の製鉄所の元従業員の息子が、「おやじが元気になった。東大(研究チーム)に来てもらってよかった。」それについで、記事の中で、人生について話を聞くことは語る人も幸せにする、とあった。

なぜ多くの人がブログを書くのか。人に自分のことを聞いてほしいから。自分を幸せにしてくれる、聞き上手の人を無意識のうちに探し求めているからかな。(かくいうクロイヌにもそんな気持ちがまったくないとはいえない。)

他の人の話をじっと聞いてあげるだけで、その人をちょっとでも、一時的にであったとしても、幸せにしてあげることができるとしたら、なんて素敵なことか。

冬のシアトル

 マイクロソフトオフィススペシャリスト(MOS)を実施、運営する主要市場の関係者が集まって、マイクロソフトの担当者とのミーティング。今日一日のために、日本、韓国、ブラジル、イタリア、アメリカなどの関係者が集まりました。
冬のシアトルはそれほど寒くはなく、コートなし、ジャケットにマフラーで十分。社員のOさんはダウンのコートを持ってきていましたが、まったく必要なし。そういえば、オリンピックが今週末から始まるバンクーバーって、ここからそれほど遠くないはず(僕もまだバンクーバーには行ったことがありません)。雪が足りないようですが、開催は大丈夫かな?
 シアトルと成田の間の直行便って、現在ではUAかノースウェストしかなくって、JALが直行便をとばしていたのは、一体、どのくらい前だったのか?明日はUAの直行便で帰ります。

霞が関のエリートだって感謝の言葉はうれしいはず。

昨今は、霞が関の役人と聞けば、叩く対象としてだけ存在するというような風潮があるけど、彼らだって人間だから、彼らの提案や政策でいいと思えるようなことがあれば、感謝というか、「いいぞ!」という声をもらうと、きっと嬉しいはず。それは政治家だって同じだろうけども。日経ビジネスオンラインのこんな記事を読みながら思います。

霞が関にはお礼の電話が滅多にないから嬉しい

2001本目のブログ「メモ」

この「メモ」で2001本目になります。黒犬通信をはじめて5年が過ぎました。正直言うと、ボケ防止程度のつもりで続けています。これからも細く長く続けていきます。友人、知人のかたたち、もう会えなくなったかつての知り合いたちへの「一方的な近況報告」としてすこしでも役立てばラッキーです。稀な話ですが、見知らぬ方たちにもなにか感じていただければ、それこそラッキーだと思っています。

貴乃花親方、おめでとう。

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初場所千秋楽後の貴乃花部屋パーティで、日本相撲協会理事選挙にむけての気持ちを読み上げる親方。閉鎖的な談合組織(とわれわれには見える)相撲の世界に、新しい息吹を!期待しています。

長谷川龍生「ちがう人間ですよ」

今日の日経朝刊一面下の「春秋」で紹介されていた詩人・長谷川龍生の「ちがう人間ですよ」という詩の始まりの一節がとてもいい。

「ぼくがあなたと 親しく話をしているとき

ぼく自身は あなた自身と 

まったくちがう人間ですよと

始めから終りまで

主張しているのです」

ストレッチを続けてみて思ったこと。

 半年以上にわたって、毎日5分、10分の細切れの時間をつかって、家やオフィスでストレッチを続けています。真向法の基本の、股関節を柔らかくするストレッチが中心です。子供の頃、うちの親が寝る前に、ふとんの上でやっていたことを思い出します。自分も、あの頃の親の年齢になったのかな?
 ストレッチをやって、普通に生活している中では使わない筋肉の使い方、関節のまわし方をしていかないと、からだが本来保っている力や柔らかさを維持できないということを実感しています。原始の人間は、一日に何万歩(一万歩ではない!)と歩き、しっかりした足、腰をしていたはずです。腰痛の人は少なかったのでは?僕らは、車や電車で移動し、便利さのおかげで、「必要」が減っています。たとえば、どこに行くにも自分の足で歩いていかないといけないという「必要」。
 必要とされないものは、どんどんと退化していき、さらには意識から消えていきます。なので、本来のあるべき姿を回復するためには、「必要を自分で作っていく」しかないです。ストレッチをすることも、「必要を自分で作っていく」ことのひとつ。
 それから、頭のストレッチも必要だよね。難しい本を読んだり、音読したり、詩を読んだり、または外国語を勉強したり。そんなことも普段の生活には必要ではないかもしれないけど、「頭のストレッチ」にはなるかな?

哀しきイノシシの母親

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 日帰りで金沢のお取引先訪問。今年最初の「新日本紀行」。羽田発7時20分の小松行き、そして20時15分発の小松→羽田行き。往復ともJALに乗りましたが、機内で流されていたNHKニュースではJALの再建問題がトップに。特に帰りの機内ではストップ安になったJAL株価のニュースが。クルーの人たちが心なしか、NHKニュースを意識的に無視しているようにも見えました。
 地元の「北國新聞」をコンビニで一部購入。一面には住宅地に現れ、あえなく殺されたイノシシの母親の記事。人間に危害を与える可能性があったとはいえ、なんとも言えないむごさと哀れさを感じました。イノシシ年生まれのクロイヌです。
下の写真の、子供と思われるイノシシには生き延びてほしいです。

 金沢の冬は曇空で、冷たい雨。明日は雪になるとか。地元の方たちのお話では、北陸3県の冬は雲がたれ込め、重い気持ちにさせる季節だそうです。太平洋側で生まれ育った僕には想像するしかないことです。

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大人虎変(たいじんはこへんす)

 我が家の甲斐犬たちのうち、カイ(♀)は黒虎毛で、クウ太郎君(正式名は大空号。これは僕がつけた名前ですが、甲斐犬愛護会にはこの名前で登録されています。)はほぼ黒毛。甲斐犬は日本オオカミに近いとも言われますが、甲斐犬たちの多くは黒虎毛で、一部が赤虎毛です。
 「虎変」は、虎の毛がきっぱり抜け替わるように、鮮やかに変化すること。「大人」は徳のある人ということだそうです。(それに反して、「小人革面」という、「面従腹背」と同様の、あるいは近い意味の言葉もあります。)「徳がある人間」というのは、漢文のテーマのひとつだと思いますが、一筋縄では理解できる言葉ではないです。
 どうすれば「大人」になることができるのか。もともと「大人」として生まれたわけではなく、自分の意志と努力で「大人」たろうとする人間は、どうすればいいのか。あえて厳しいこと、苦しいことを求めていき、それらを克服していくことで、「大人」にすこしずつ近づいていくことができるのか。またその過程において、「虎変」することを繰り返していくのか。
 「大人」であるから「虎変」することができるというだけでなく、「虎変」というあざやかな変化ではなかったとしても、たとえわずかであっても変化を繰り返していくことで、「大人」たる自分に近づいていくことができるのではないか。僕はこの言葉からそんなことを考えています。