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科学的根拠をもとにした漁獲

今日の朝日新聞朝刊に、このままだと日本では魚が獲れなくなるというインタビュー記事が出ていた。水産会社の社員で輸入を担当してきた方と、近畿大学で水産業の研究をしている先生の話が紹介されていた。
二人とも同じような内容の話で、魚が獲れなくなってきていることについて大きな見解の違いはないように思う。
この「オピニオン&フォーラム」のページをまとめるとこんな話になる。
1 世界中で魚の消費量が増えている。日本は「買い負け」するようになり、求めるようには魚が輸入できなくなっている。
2 日本で魚の水揚げが減っているのは、科学的根拠を基に漁獲高を管理するルールが機能していないから。漁業者はできるだけとりまくる。獲りすぎに気づいていても成魚になる前の小さい魚まで獲ってしまう。
3 他国では漁獲枠を定める調整が機能しているケースがあるが、日本では行政の調整機能が働いていない。科学者、政治家が科学的根拠を基に制度を作ったノルウェーの例がある。
4 本来豊かなはずの日本の海で、この先も獲り続けられる持続的なレベルに戻す取り組みを進めないと、魚は確実に不足する。

この前、医療関係者と話していたら、医療の分野では「エビデンス(証拠)に基づいた議論」というのは20年くらい前から話題になっているという話を聞いて驚いた。エビデンスという言葉が一般化したのはこの数年のことのように思うから。

至る所で課題が噴出し、ちゃんとした解決策を見つけていくためにまず事実関係をきちんと把握、理解しましょうということで、「エビデンス」という言葉が頻繁に使われるようになったという印象。難しいのは、それぞれの立場があるため、自分に都合のいい「エビデンス」を求め、主張する傾向があること。次には、「エビデンス」の理解では合意ができたとしても、「これでは食っていけない。俺の生活をどうしてくれる」となって、開き直りの議論を展開するグループが出てくること。なかなか難しい。

道元禅師の言葉

東京に初の女性都知事が誕生。談合と口利きのにおいがプンプンする自民党都議連の方たちは憤懣やるかたないという表情のようですが、女性都知事さんには期待したいです。そもそも日本は女性の政治家が少なすぎる。地方議会、国会ともに、もっともっと(半分まで)女性議員、女性首長が誕生すべきだと思います。

6月25日の東京新聞の「生きる」というページに、曹洞宗尼僧の石川和幸という方が、道元の言葉を「正法眼蔵」から紹介されていました。

「年上だから、実務が長いからというだけで本質を把握していない男に何の必要があろうか。得法(ものごとのあり方の本質を把握する)の女を登用しなさい」

「得法の女を訪ねて行って学ぼうとするのは、優れた男だからするのです」

「女は性欲の対象だとみるのなら、男は男色の対象となる。ならば女も男もすべてを排除しなければならない。人を性の対象とみるのは愚の極みです」

「女というだけで非難される。何の欠点があるというのか。男というだけで、何の徳があるというのか」

「すぐれた結果をもたらすはたらきや能力を、性別とは関係なく登用しなさい」

「日本国にひとつの笑いごとあり。結界と称して女をいれないことだ。結界は心が造っている」

「善の行いの極位は差別をしかいこと」

道元のなんとフェミニストなこと!

この方は永平寺で戒律を授かったとされています。
道元の言葉はそのまま現代日本でも通用しますね。

期待する人が多いけど。

期待する人が多い。政府や日銀やあるいは他人に。期待通りでなかったらすぐ不満顔になる。
今日も日銀が発表した金融緩和策が期待以下だったとして円高が進んだ。
いったい、なんど緩和策を繰り出せばいいというのだろう。
そもそも政府に成長戦略なんて出すことができるのだろうか。

かつて一億総中流と言われた日本で、自分は中流だと感じている人は三人に一人となっている。
わずかばかりの貯金をして(だってさきの不安があるんだから)、ちょっとばかりの贅沢をすると(USJやディズニーランドに行くこと?)、たいしてカネが残らないという状況がいたるところにある。
所得の再配分に関しては期待したい。それは政府にしかできないことだから。
でもそれ以外の多くのことは、たとえば成長戦略なんてものは、政府にはできっこない。もう一体何年この言葉を口にしてきたというのか。
そんな戦略は自分たちが考えていくしかないじゃないか。

同じことを繰り返しそのたびに一時しのぎで効果は消えていく。なにか根本的におかしい。
目先の取り繕いはもういいのに。

経済人と民主主義

元大手商社の副社長をやっていた人間が、時の政権の権力者のひとりの推薦で国営放送の経営トップになり、「政府が左というのに、右ということはできない」と、大本営発表をよしとする考えを示し、言論の自由、報道の自由よりも政府の友だちであることを優先させようとしています。
先日も、九州で発生した地震の被害に関連して、鹿児島の川内原発に関して国民の不安を駆り立てないために、NHKは政府の公式発表にそって報道するようにと、社内で指示していると報道されました。

日本は西側先進国のメンバーとして、民主主義、自由、人権尊重といった価値観を共有していると、政治家たちも経済団体の人たちも口にするのだけど、報道の自由、言論の自由に関しては、本音ではあまり大切だとは思っていない印象。

BBCの番組で、イギリスのEU脱退を支持する経済人をインタビューする番組を見ていて、そのビジネスマンが「民主主義は経済的繁栄の前提条件だ。北朝鮮よりも南朝鮮、東ドイツよりも西ドイツ、南米よりも北米が繁栄したのは民主主義の有無の結果だ」と、議論としては一部荒っぽいことを言っていたのですが、「きれいごと」だとしても、そのことを自論の根拠として強く信じているように見えました。
欧米、特にアメリカ、イギリスの経済人たちは、ホンネでは面倒だなと思っているのかもしれませんが、民主主義が経済的な繁栄、イノベーションなどの必須条件であることをしばしば口にします。

どうしてリーダー的立場にある日本の経済人たちは、民主主義、報道の自由、言論の自由が、経済的な繁栄のために重要な要素であると主張しないのか?


絶対貧困と相対貧困

午前中偶然なんだけど、移動中のクルマのなかで、ほんの数分だけ、国会中継(参議院予算委員会)を見る機会があった。 前川 清成(民主)という議員が日本の貧困状況に関して質問し、総理大臣あるいは厚生労働大臣が回答するのだけど、総理または厚生労働大臣が、相対貧困の定義あるいはその求め方について、はっきりとは理解していないことが伺えた。厚労大臣は日銀出身でお勉強ができる方だと思っていたけど、その方が役人にサポートしてもらいながらも、正面から質問に回答できない様を見るのは、ちょっと残念だった。

相対貧困の話は統計の知識が問われる話でもあって、あらためて統計の知識の大切さを実感した。(だから「ビジネス統計スペシャリスト」を受けましょう、という宣伝ではないけどね)

僕自身、相対貧困のもとめ方は知らなかったので、以下のような情報をみて、にわか勉強をしています。

貧困率よくある質問(厚労省HP)

相対的貧困率等に関する調査分析結果について (内閣府、総務省、厚労省)

相対的貧困率とはなにか(雑誌「ビッグイシュー」HP)

国会中継なんて好んで見ることはないけども、大切な情報源なのは確か。
このようなサイト(→国会TV)には頑張ってもらいたい。

「規制の虜」(黒川清著)

副題は「グループシンクが日本を滅ぼす」。グループシンクはgroup thinkのこと。
この本はどういう本かと簡潔に言うと、「日本を代表するエリートによる、既得権を守ることに四苦八苦するエリートへの批判と絶望の書」というところか。
著者は国会が作った福島原発の事故調査元委員長。その経験をもとに書かれた本。東大医学部卒、カリフォルニア州立大学医学部教授、東大医学部教授、日本学術会議会長、等々の経歴。

まっさきにこんな文章で始まるのだから絶望的になってくる。

「志が低く、責任感がない。自分たちの問題であるにもかかわらず、他人事のようなことばかり言う。普段は威張っているのに、困難に遭うと我が身かわいさからすぐ逃げる。これが日本の中枢にいる『リーダーたち』だ。政治、行政、銀行、大企業、大学、どこにいる『リーダー』も同じである。日本人は全体としては優れているが、大局観をもって『身を賭しても』という真のリーダーがいない。国民にとって、なんと不幸なことか。福島第一原子力発電所事故から5年が過ぎた今、私は、改めてこの思いを強くしている。」

この本のなかにはふたりの例外的な日本人があげられている。朝河貫一、山川健次郎。彼らの残した業績はもっと広く紹介され勉強されるべきでは。特に隣国との関係が悪化し、過去と同じ蹉跌を歩もうとしているかに見えるいまの時代、1909年に出された朝河貫一の日本への警告(「日本の禍機」)はもっと読まれるべきでは。

日本のシステムが変わらない限り、これから本当に優秀な日本の若い人たちは東大なんかにはいかないのではないかと思う。あるいは日本の大学を卒業したとしても、活躍の場を日本以外に求めていくのではないだろうか。

問題はいまのシステムを変えるにはどうすればいいのかということになる。
そのためには、この本のなかで、何度も先生が使われている「独立した個人」が日本に増えていくことに尽きるように思う。group thinkではなく、independent think。

「真実という鏡」

今日の朝日新聞「ニュースの本棚」のコーナーに、言語学者の田中克彦先生が文章をお書きになっていた。大学時代の好きだった先生の一人。「大学と人文学の伝統」というテーマの文章。人類学の鳥居龍蔵(1870ー1953)と東洋史学の前嶋信次(1903−83)の紹介をされたあと、J.S.ミルが講演(「大学教育について」)でおこなった以下のような趣旨の警告を紹介されている。

「自分自身と自分の家族が裕福になることあるいは出世すること」を「人生最高の目的」とする人たちに大学が占領されないよう、絶えざる警戒が必要である。

そして田中先生は、以下のようなメッセージで文章を終えられている。

「今の日本の政治を担う人たちは、かつて大学生であったとしても、大学が学生に与えるべき最も大切な経験ー真実という鏡の前で自らの精神のくもりに気づくという知的・心的経験を一度として味わわなかったのであろう。だからこそ、もうからない人文学を大学から追放しようという、先人の築いた日本の伝統を破壊へと導きかねない発想が表れるのであろう。」

時として「真実という鏡」の前に立つことを必要とするのは大学生だけじゃない。

円安を希望する亡国論者。

円安で得をしている企業は日本全体で一体何割程度なのか?国全体としてみたときには円高の方がいいに決まっているのに、相も変わらず円安希望の企業人がいることに、うんざりしてしまう。株式市場も、円安になるとプラスの反応を見せたりする。これにも、うんざりする。
金利もゼロがいいという企業人がいて、なにを言っているんだと言いたくなる。
資産家たちは、海外にカネを動かしているというから、彼らも円安を歓迎するのだろうか。せっかくドルに換えたのだから、ドル高の方が気持ちはいいだろうし。

ゼロ金利と円安のお蔭で、日本経済の非効率は温存されたままで、新陳代謝はいっこうに進まない。結局、構造改革を行うことは、人を切ることにつながるので、だれも嫌われ役なんて演じたくない。経営者(企業)も、政治家(国家)も、人を切ってうれしい人なんていやしない。だから構造改革はなかなか進まず、組織はじわじわと沈んでいく。

切られた人は教科書的に言えば、再訓練を受けて、成長分野に移動していくべきなんだけど、人間年取ってくると勉強する気力も体力もなくなるし、変にブライドだけは高くなってゼロから再スタートするなんてことは、そう簡単にはできなくなる。

今日、ある会合でエコノミストの話を聴いていて、最後に「企業をいい意味で揺さぶるには円高しかないのでは?」と質問したところ、「自国通貨が値上がりして滅びた国家はない」と賛成のお答えをいただいた。

いつかきっとこんな日が来るのではないかと思う。日本国内に十分な貯蓄がなくなり、海外からのカネに頼らなくてはいけない。そのために、円がいかに有利な通貨であるかという宣伝を国をあげてしなくてはならない日が。そのときになって、円高こそ日本にとって望ましいことだと、なるのだろう。その前に、延命のためにひたする円安を望んでいた企業はとっくになくなっているだろうけど。

sin/cos/tan

鹿児島県知事が、「女子教育で三角関数を勉強していったいどんな役に立つのか」と発言したとか。
日頃、口にしなかったとしても、心に刷り込まれた事がぽっと口に出てしまったのか?
「ラ・サール→東大法学部→霞ヶ関」のエリートも、一皮めくると、イスラムのガリガリ親父と変わらないようなことをおっしゃっている。
ご家族はお嬢さんがお二人いらっしゃるようだけど、進学校から有名大学でしょうか?三角関数もたくさん勉強されたくち?

地下鉄を利用する時、「女性専用車両」の電車に遭遇するたびに「日本って、みんなが思っている以上に、イスラム圏に近いんじゃないかな?!」って、思ってしまう。もしかして、ケースによっては、イスラム圏よりも、もっと男尊女卑が強いかも。すべての日本男子がそうだとは思わないけども、年配の方たちの中には、ちょっと理解しがたいほど男尊女卑の方もいらっしゃる。

憲法24条は以下の通り:
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

保守派の方たちは、この24条もあまりお好きではないのかもしれないけど、日本国憲法のなかで、一番大切な思想の一つだと思う。
この草案を作ったベアテ・シロタ・ゴードンはとても素晴らしい仕事をしたとも思う。彼女の伝記はとても面白かった。僕ら日本人は、もっと彼女のことを知っておいた方がいい。
「1945年のクリスマス」

歴史を大切にすること、寄付行為、帰属意識。

あることがあってこんなことを考えています。

日本人は過去の歴史をすぐに忘れてしまう、特に都合の悪いこと。それはきっと他の国の人たちも、大なり小なり同じことが言えるのだろうと思う。加害者としての歴史は時に国家の力の誇示と栄光に結び付けて語られることがあるくらいだし、他国に与えた苦痛は忘れて、被害者としての出来事ばかりを繰り返して語ることが多いのは日本人だけではないのかもしれない。それでも日本人はあまりこの点に関しては、決して自慢できるような生徒ではないように思う。

国という大きなレベルよりも実はもっと大切な歴史がある。

それは自分という人間の歴史。そもそも一番身近に感じる歴史は自分自身が物ごごろついてから起こったこと。
多くの人は過去の出来事について、写真をはじめとして、ちょっとした記念品など、思い出として大切にしていることだろう。
それも自分の歴史を記憶して留めておきたいという願いの現れ。

それで寄付がこの歴史を大切にするということとどう関係するのか?

自分が「お世話になった」と思っている経験があるとすると、その経験は自分一人でできたものではなく、他の人たちによって可能だったはず。例えば、学校。留学もまた一つの例になる。

個人の歴史を大切にする、大切に思っている、ということを示す「表現方法」として、とても強い意志表示になるのが、「命の次に大切」だとも言われる(という人さえもいる)「身銭」を提供する(寄付する)ことなのではないか?

ここで、金額の多寡は2次的なことで、大切なことは1000円であっても、3000円であっても、身銭を切るということ。(一食分が500円というのであれば、500円)

日本人は寄付しないという。アメリカなどと比べて、寄付行為は非常に低調だと言われている。

現在ある自分を作ってくれた経験を提供してくれた組織が寄付を求めているとき、まったく寄付に参加しないということと、歴史(さまざまにある「歴史」の中で一番大切な「自分の歴史」!)を大切にしないということは関係ないと言えるだろうか?

過去の体験(=自分の歴史)はいろいろな意味で現在につながっているし、実は将来へも伸びている。自分の歴史は自分の家族の歴史につながり、さらには自分が生まれ育った町へとつながっていく。

いまの日本人の帰属意識の薄さ、低調な寄付行為、そして歴史意識の低さ。そういうことは複雑系のように絡み合っているように思えてならない。

イギリスの「器の大きさ」に感心した。

ヨーロッパの公共施設、美術館や図書館の建物の一部に、その国の文化に貢献した知識人たちの胸像や銅像を飾っているところが多くあります。ガリレオであったり、ニュートンであったり、あるいはヴォルテールであったり。東京でも、日比谷公園や皇居に、日本の歴史的人物の銅像がいくつかあります。

さて、BBCのニュースで、ガンジーの銅像がイギリス国会の周辺の空間に、リンカーン、ネルソンマンデラの銅像についで建てられることになったというニュースに感心しました。(→BBC

イギリスの国会の外に、イギリスの政治家たち(たとえば、チャーチルやディズレーリー)に加えて、リンカーンやマンデラの銅像があることを知りませんでした。リンカーンもマンデラもイギリス国民ではありません。その人たちの銅像を、国会の横の空間に飾るのです。もちろん、リンカーンはかつてイギリスの植民地であったアメリカの大統領であり、マンデラはイギリス連邦加盟国である南アフリカの政治家で、イギリスと関係の深い国の人たちです。

ガンジーは、イギリスの植民地政策への抵抗運動のリーダーだった人間です。その人間の銅像が、イギリスの政治の中心の場の近くに置かれるという意味。

ガンジーも、マンデラも、リンカーンも、人類の普遍的な価値を実現しようとした人物でした。彼らの目指したもの、彼らが求めた理想を、過去の「恩讐」を超えて評価するというところに、イギリスの器の大きさを感じました。

国際的なPRという意味でも、イギリスにとって、とても賢い政策だなと思いました。「我が国は、これら人類普遍的な理想を追い求めた人物たちに敬意を表するのだ」というメッセージ。

日本も、海外の人たちに勲章をあげていることは知っています。でも日本の勲章制度にはあまり感心しない。戦後、日本国土への大空襲を指揮したアメリカ空軍の将軍に、わけのわからない理由をつけて、勲一等旭日章をあげるなんて。

日本の理想ってなんなのだろうか?それが平和主義であり、国際貢献であるのなら、日本人であるか、外国人であるかを問わず、銅像でもなんでもいいのだけど、日本国内の公共空間に、その人たちを讃えるモニュメントを作ってみてはどうだろうか?たとえ今日本がいがみ合っている国の人物であったとしても、文句なしに世界で称賛される人物であるのなら、彼らの銅像があったとしてもいいのではないかどうか?若き慰安婦の銅像を、自国内だけでなく、アメリカという日本の兄貴分の国に「告げ口」をするような感じで銅像を建てていこうとする国よりも、ずっと大人の行動ではないだろうか?

いつか日比谷公園や皇居の回りに、日本の偉人たちにならんで、世界の偉人たちの銅像が列ぶ空間があったとしたら、世界からどのような評価を受けるだろうか?

小国ではダメですか?

Wカップが始まってからは、普段ほとんど見ないテレビで、朝5時からの試合を観戦しています。
昨日のコスタリカ対オランダ戦は、今回の大会の試合の中でももっとも熱くなった試合でした。英語でいうところのunderdog(日本語では、勝ち目の薄い人、勝利の見込みがない人)を判官びいきする傾向のある僕は、コスタリカを応援しました。

コスタリカって、大会前の試合で、日本に負けましたよね?!でも、大会が始まってからは、堅守の中、着実に得点を重ねベスト8まで進み、とても印象に残りました。GK以外では特に印象に残った選手はいないのだけど、チームとしては記憶に残る活躍。

新聞記事の見出しには、「コスタリカ_無敗の敗者。番狂わせの主役、120分守り抜いた」。

日本人の好きな言葉に、「身の程を知れ」っていうのがあると思うのですが、日本チームって、自分たちの強さ、弱さをよくわかっていたのだろうか?サッカーは、自己の記録を競う体操や水泳とは違って、柔道やバスケットボール同様、相手との取っ組み合いの中で勝負が決まるわけで、「自分たちのサッカーができない」のは、どのチームにとっても大なり小なり当てはまるはず。だからこそ、「身の程を知った」上で、相手相手によって、戦い方を変えていくことが必要になる。

まあ、素人の僕がこんなことを言ってもしょうがないのですが!

日本は明治以来、富国強兵、立身出世主義でこの150年くらい走ってきたわけで、まず太平洋戦争での敗北で、そして20年ほど前のバブル崩壊で、馬脚を見せたはずなのに、今の総理は飽きもせずに大日本帝国の復活をめざしているような気配。

でも、この150年の日本の歴史って、2000年の長い時間の中で、どちらかというと例外的な時間だったのではないだろうか?
特に戦後の日本の経済力は、信じられないほどの幸運の中(東西冷戦下、軍事費を節約し、アメリカ市場への輸出に注力していくことで、ひたすら経済力を研いた時代)で達成されたもので、ほかの国々が教育に力を入れ、工業力をつけてくるにつれ、日本の相対的な力はどんどん低下してきたのが、この20年だった。

足るを知ること、身の程を知ること。日本人が好きな言葉のはずなんだけど、それらを良しとせず、世界ナンバーワンを目指そうという声が時に感情的に出てくる。

決して楽をしようなんていうのではないけども、自分たちの国の地理的限界、風土、文化。そういうものをよく理解した上で、なにがわれわれにふさわしい目標で戦略なのかをよく考えた方がいいと思うのです。

1980年代、アメリカの学者の本のタイトルを心から信じていた日本人はそう多くないと思います。たしかに一部の分野では世界を席巻した商品を開発したのだけど、そんな会社に働く社員の生活は会社の売り上げや利益とは違って、決して世界有数ではなかった。「世界一の日本」なんてタイトルの本がでようとも、80年代、90年代も、そして今21世紀になっても、われわれ日本人の生活水準は世界のトップ5どころか、トップ10にも入っていないというのが、僕の実感です。
80年代、90年代前半までの、あれだけ経済が成長していた頃でさえも、日本人の生活は決してうまく行っていたわけではなかった(反論があるなら、日本の家を欧米の住宅事情と比べてみればいい)。

アメリカと同じような都市空間を持ち、生活をしようと思っても、そもそも無理なんだから。この狭い国土の中で、どうやって快適に暮らしていけるのかを、よく考え直した方がいい。(そういう意味で、いまの東京はもう限界に達している。まったく良くならない通勤地獄。あの時間だけで、毎日、どれだけ多くのエネルギーが浪費されていることか。)
大学は東大、スポーツは甲子園、生活はアメリカン、経済はグローバル。そんな立身出世主義から卒業して、ある意味、もっとしたたかな、小国としての目標や戦略があってもいいのでは?

コスタリカじゃないけど、負けないゲームを目指したい。
会社経営も同じ。

最後に僕の価値観みたいなものを書いておきます。僕は、個々人の生活が一番大切だと思っています。個人主義を信じる経営者でありたいです。

diversity (ダイバーシティ)、本気?!

東京都議会で、ゲスとしかいいようのない女性蔑視のヤジを飛ばした自民議員(複数?)にみるように、日本での男女の平等の実現は、はるか彼方にあるように思う。男女の同権をホンネでは望んでいない男たちがまだまだこの国の支配層には多いように見える。

「ダイバーシティ」(人材の多様性)のことを口にする企業人、政治家、役人が増えているけども、本気でやる気があるのだろうか?
先日、朝日新聞で、日本IBMはアメリカ本社にならって、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランヴェスタイト)が差別を受けることがないように、人事部に担当者をおいているというインタビュー記事を読んだ。日本IBMに勤めている友人の話でも、本気になって取り組んでいるということで、さすがだなと感心した。
ダイバーシティと口にするのは簡単なんだけど、本気でやるガッツを持っている日本企業、日本の経営者なんて、非常に少ないという気がする。

今日、BBCのHard Talkというトーク番組で、著名な経済史の教授がでていた。「彼女」の名前を聞いたのも初めてだった。その方が学者として以外にも、53歳で男性から女性への性転換を行った人だということで話題になった人だということを、番組の終わり頃に番組の司会の話で知って、びっくりした。シカゴ大学、エラスムス大学(オランダ)などで教えていた人で、論文や著作品もたくさんある。そのうちのいくつかは日本語にも訳されている。学者としても非常に評価の高い方のようだ。

日本で、たとえば東大の先生が、性転換を行ったあとにも、教授として教え続けることができるのか?NHKがその教授が性転換をしたあとにも、看板番組の一つに出演してもらって、その方の専門分野でのご意見を拝聴する度量があるのか?(視聴者や保守系政治家たちからのクレームにも毅然とした態度で接することができるのか)

口先で人材のダイバーシティを言うのは容易いのだけど、本気にやろうと思うと、ものすごくエネルギーを使いそうだ。

Deirdre McCloskey ホームページ
Deirdre McCloskey(Wikipedia)

『原点は夢_わが発想のテクノロジー』(佐々木正著)

もとシャープ副社長。日本のITベンチャーの育成という意味で、最大の貢献者のひとりなのではないかと思います。
今年100歳になられる方。戦前1938年に京大を卒業されたあと、ドイツ留学をされ、戦後はアメリカで幅広い人脈とビジネス経験を広げていかれた、いま風に言うと、まさにグローバルな人材。こういうスケールの大きな方が、「サラリーマン経営者」にもいたのかと、感心しました。
この本は14年前の2000年に出版された著者80代半ばの頃の本ですが、いま読んでも非常に的確かつ建設的な分析と提案が含まれています。「出る杭は打たれる、出ない杭は腐る」という言葉を紹介されていますが、まさに出まくって、何度も打たれながらも結果で、まわりの批判するだけの連中をギャフンと言わせてきた方と拝見しました。
日本企業や日本社会の問題点に関する指摘には、まったく同感のご意見ばかり。著者のこれら指摘は、この本が出た頃以上に当てはまるところもあり、日本の問題の根深さをあらためて感じます。(硬直化した日本人、日本の制度!)

アマゾンで古書を買いましたが、このような本が絶版になっていることはとても残念だと思いました。

かぜで大病院に行く人、成分を確認せずに薬をのむ人。

昨日、医療情報サービス分野のベンチャーを立ち上げている知人が、数年ぶりに近況報告に来てくれた。
ご本人も医学部をでた医者で、ここ数年は会社を経営している。最初に立ちあげた会社を売却し、新たに立ち上げた会社でやろうとしていることを聞かせてくれたのだけど、世間話程度に、日本の患者の「民度」に関する話をいくつか聞かされた。

1風邪を引いたからといって、大学病院に行くような人がいるのは日本くらい。大病院ではそのような患者は歓迎しない。個人経営の病院は風邪程度の患者が経営を支えていて、ある意味、そのような患者の奪い合いがある。
2先進国の多くでは風邪であれば市販薬を飲み、しっかり休む(寝る)ことが治療方法だとされている。
3市販薬の成分をちゃんと確認する患者があまりにも少なすぎる。自分が飲んでいる薬の成分を説明できない人が圧倒的。風邪薬であれば、数種類の成分の組み合わせにしか過ぎない。
4成分の組み合わせによっては、「劇薬」にもなりうるので注意が必要。
5サプリメントにいたっては、もう滅茶苦茶な話が多すぎる。

そういうことを「民度」というのではないかと思うのだけど、すべてを国や会社任せにしないで、「自分のことは自分でやる」という教育を小さい頃からちゃんとやらないものだから、結果、勉強(仕事)だけやっていれば、その他のこと(家事から始まって政治等々まで)は考えない、考えなくてもいい、さらには考えない方が身のためだというくらいの人が多くなっているのかな。

税金にしても、会社が国に代わって給料から徴収し、個人に代わって納税するものだから、給与所得者の多くは給料の明細表に書かれた数字を目で見るだけで、実際の税金の「重さ」を感じている人は非常に少ない。自分の給料からどれだけ税金払っていてそれらがどのように使われている(浪費されている)のかを知ることも、自分の体の中に入れる薬の成分を確認することも、同じように大切だと思う。

自由のないところに継続的な経済的発展はないだろう。

与党が秘密保護法案を無理に通過させようとしています。
ノンポリのクロイヌですが、この法案には絶対反対。
言論の自由、報道の自由、思想・信条の自由。それらは人権を担保する条件で、自由闊達な社会の前提条件。
長期的にみたとき、人権が尊重されず、自由のないところに継続的な経済発展はないだろうと思う。

『「世界で戦える人材」の条件』(渥美育子著)

日経ビジネス(2013年8月12・19日号)の書籍紹介のページで知った本。グローバル人材に関する議論にはウンザリしていることもあって、はじめはこの書籍紹介のページもはしょって読んだのだけど、著者の以下のような発言を読んで、強く関心を持った。

「(日本の)経営者が人材育成にあまり興味がないことが気がかりです。人事部門に任せきり。人事も自分の任期中には変化を起こしたくない人が多い。海外赴任前に少しグローバル人材教育をするだけでお茶を濁しているように思います。」

すぐに同じビルにあるクロイヌ御用達の本屋でこの本を買ってみた。PHPビジネス新書。岩波新書じゃないよ、PHPビジネス新書。

期待以上の本だった。学者の本ではないので(岩波じゃないよ!)、文章や論理には荒さはあるかもしれないけども、グローバル化が進行する現在の世界のルールも、なにをすべきかということも、ほとんどの日本人はわかっていない、という彼女の言っていることには同意する。

この本の中で、僕の中で強く残ったいくつかの言葉ある。
そのひとつは、「大きな器」と「日本サイズの心」。

「私たちは、日本で生まれ、育ち、教育を受け、仕事に就くことで、自覚症状がないままに日本の現実を受け止めるのにちょうどよいサイズの心、日本サイズの心を育ててしまっている。」(103ページ)

以前、シリコンバレーで長く働いていたある知人(日本人!)がこんなことを言っていた。「金魚鉢のなかにいる限りは、金魚にしかなれない。」 確かに美しい金魚もいいだろうけども、僕は「大きな器」を持ちたいとずっと希望してきたように思う。問題はもっと強くそう願い、その実現のために、もっと行動していくこと。

この「大きな器」ということばは、以下のようなメッセージでも使われていて、それは日本の大学教育にもヒントになるようなメッセージだ。

『大事なのは、「大きな器」をもつことなのだ。一番大きな器をまず獲得し、そのあと徐々に知識や知恵の詰まった引き出しをたくさん作っていく。日本の大学では、こうしたリベラルアーツをほとん学ばない。体系的に学ばないために単なる知識として終わっている」(154ページ)

著者は人材育成に関するコンサルティング業を、アメリカで長年にわたっておこなってきたという実績がある。世界中の人たちといっしょに仕事をしてきたようだから、単にアメリカではこうですよ、って話ではない。

若い頃、アイオワ州立大学のクリエイティブライティングのコースに参加したことがあると本の中で紹介されている。もともとは、文学を目指していたのだろうか?アマゾンでチェックすると、同じ著者名で、『シルヴィア・プラスの世界』なんてタイトルがあるけど、同じ著者なのだろうか?

グローバル化というような話の中で、以下のような表現がとても新鮮に思えた。

「グローバリゼーションが持つパワーは、内から拡張していく力、つまり自国から外に出ていき他の国と関わりを持つ拡大する力expansion と、宇宙から見た地球という微細な存在の認識、つまり考えられないほど広大な宇宙の中に無数に存在する天球の一つが地球であるという理解が同時存在するところにあると、私は個人的に捉えている。」(72ページ)

僕は政府や企業が先導しようとする「グローバリゼーション」は信じていない。グローバリゼーションは、一人ひとりのこころや姿勢からスタートするものだと思っている。それが個人主義ということでもあるだろうし。

あまり期待していなかったからということもあるけど、この一冊の本をさかなに、日本のグローバル化についてさまざまな議論ができる、いい意味で、controversialな本。多くの人に読まれることを期待。

ふたつの「出入り禁止」

先週ネットで読んだニュースで、いやだなと腹の底から思ったニュースが、ふたつあった。別々の話なのだけど、そのふたつはまったく同じテーマであって、僕ら日本人が一番関心を持たないといけないことだと、僕は思っている。

ひとつは時の最高権力者が所属する政党が、ある報道機関が公平性を欠く報道をしているとして、出入り禁止を言い渡したこと。それに対して、その報道機関は、「指摘を受けたことを重く受け止める。今後一層公平、公正に報道していく」という詫び状を出すことで、「お許し」を得たこと。

もうひとつは、ある経営者が、自社の株価に関連して、消極的なレポートを書いたアナリストに対して、きちんとした分析に基づいたレポートではないとして、「出入り禁止」を一方的に公言したこと。その会社は自社の情報公開に関して、積極的かつ公正に行ってきたのか、その点に疑問を持つアナリストたちもいるというのに。

このふたつのケース、どちらもいま最も乗りに乗っていて、「我が世の春」を謳歌していると見られる権力者たちが、自分たちが気に入らない情報を流す報道機関あるいは証券アナリストを押さえつけようとする行動とも見える。

報道機関も、証券アナリストも、彼らの役割はまったく同じだ。権力者(経営者)と選挙民(投資家)の間にたって、情報公開や情報分析に役立つ存在であることを使命としている。彼らの仕事が雑であったり、公平性を欠くのであれば、われわれ選挙民(投資家)が判断して、彼らのサービス(提供される情報)を買わない、あるいは見なければいいだけだ。権力者たちに判断してもらう必要はない。「権力は腐敗する」という歴史の法則のもと、権力者たちのチェックをおこなうべきジャーナリストやアナリストという人たちの存在は、しっかりと守られないといけないし、彼らはきちんとした情報分析を通して、われわれ選挙民(投資家)の支持を得る努力を継続してもらいたい。

ふたつの「出入り禁止」は、別の意味でも結びついている。経営者は、時の権力者に近づくことで自社の利益を最大化しようとする。
先週読んだふたつの「出入り禁止」の記事が、これからの日本を暗示するものではないことを、祈る。

社会インフラも老齢化。

日本の老齢化は人口だけでなくって、道路や橋などの社会インフラもだということを、いろいろな人たちから聞いています。先日八ツ場ダム反対ということを再度書きましたが、決してすべての公共事業に反対しているわけではなく、必要な公共事業と不要な公共事業、費用と効果が見合った公共事業とまったく見合っていない公共事業を区分けし(仕分けし)ていく必要があると思っています。

首都圏を中心とする社会インフラ、たとえば橋、トンネル、高速道路などは東京オリンピックを控えた1950年代後半から1960年代前半に作られたものが多くあって、それらは出来上がってからすでに40年から50年の時間が立っています。コンクリートの強度など、もうそろそろ危ない時期に入りつつあるということを聞いています。

ちょうど今日、中央道の笹子トンネル内で、「コンクリート製の天井板が110メートルにわたり崩落し、少なくとも車3台が巻き込まれた」という記事を読んで、まさにこれから多発する可能性がある社会インフラの老齢化現象の一例かと思ってしまいました。これからは新規の公共事業よりも既存の社会インフラの維持管理だけで、ますます多額の予算が必要になるはずです。

ポラリスプロジェクト日本代表の話を聴く。

昨晩のことですが、ポラリスプロジェクト・ジャパン代表の藤原さんをはじめとする関係者によるプレゼンテーションをお聞きし、世界の人身売買の実態を伝える30分程度のドキュメンタリー映画を見たあと、1時間ほど議論する集まりに参加しました。

日本は人身売買に関する議論が低調な国のようで、先進国の中で、人身売買を禁止する法律がないという意味で、非常に「遅れた」国だと聞きました。

藤原さんは日経ビジネス・オンラインアエラなどで紹介されたようですが、この組織が掲げるミッションと比べ、日本社会、あるいは政府からの支援は、あまりにも小さすぎるような印象を持ちました。

ポラリスプロジェクト・ジャパンのHP

先生たちだってミスをおかすことはあるから。

海外の取引先の人で、マレーシアから短期的(一年間)にアメリカの本社に勤務している人と話をしていて、「一般的にアジアの教育はどうして教師から生徒への一方的な講義に終始しがちなのだろうか?」という話題になりました。彼の10歳になる娘は、アメリカの学校に転校になった当初は、積極的に自分の意見を表明することを期待されることに戸惑っていたけれども、現在ではそのやり方にかなり慣れ、授業の中で、自分の意見や希望を積極的に話すようになったということでした。

大学に入ってもそうですが、日本の学校教育のやり方は、先生が一方的に話し、生徒はひたすら板書をとり、記憶するという方式が主流でした。現在はどうなっているのでしょうか?

このやり方の弊害はあまりにも大きすぎます。素直で権威に弱い、正解がある世界でのみ安心しがちな人間を作ってきたのではないか?

日本の学校教育の弊害として、間違いをおかすことを非常に恐れる学生を作り続けているということが言われます。
いわく、間違いをおかすことを恐れる、突飛も無いことを考えようとしない、正解ばかりを求め、冒険をしようとしない、と。

それと同時に、先生たちも、生徒たち同様、間違いを恐れ、安全に自分たちの「権威」を守ることができる範囲でのみ、教員としての職務を遂行しようとしているのではないか?という気がするのですが、いかがでしょう。

同じマニュアル、同じ指導要領で、文科省の言う通りにやっている限りは、モンスターピアレンツから指弾を受けるような危ない橋を渡ることはないでしょう。特に「いい大学」に入るための受験勉強を指導している限りは、親からも歓迎され、大きな間違いを犯す危険もありません。受験指導に熱心な先生は大いに父兄から歓迎されるのではないでしょか。

でも世の中が必要とする人材も変わり、日本の有名大学を出たからといって、必ず活躍できる、いい思いをするとは限らない時代になりました。

問題は複雑になり、必ずしも正解があることばかりではなくなっています。それどころか、正解が見えない、正解があるのかどうかさえもわからない時代になっています。

のびのびとした、個性豊かで、自分の意見をしっかり持った生徒をもっと作りたいのであれば、実は先生たちから始めないといけないのではないか?と思っています。少々の間違いに萎縮するのではなく、間違いから学び、前例のない新しいことにも挑戦するように。すべての問題への正解を知っている訳でもないのだし、知らないことはたくさんあるはず。でもそんなことは認められない立場にあると、自分の間違いや弱さを隠すようになります。(原子力村の住人たち、霞ヶ関の住人たちにも、同じようなことが言えるかもしれない)

最近の学生は内向きで海外にも出たがらない、リスクをとりたがらないという話をよく聞くのですが、そんな学生たちは、彼らの周りの大人たち(両親や教師たち)の鏡なのではないかと思います。親や教師たちが冒険をしないのに、どうして子供たちが冒険するのか?

そんな意見を持っているので、実は文科省のあるプロジェクトの「応援メッセージ」として、「親や国を捨てろ」という、ちょっと過激な意見を書きました。
GiFT応援メッセージ

自由闊達な日本にならないものか。生徒たちだけでなく、先生や両親、会社員、霞ヶ関の官僚たち、そして政治家たちも、もっとのびのびと仕事ができないものか。多くの日本人が汲々として、クレームを受けないように、クビにならないように、ひたすら正解がわかっている守備範囲でのみ、仕事を無難にこなそうとしているように見えてしょうがないです。

去年のことを覚えている?

一年前の今日は、群馬県のお取引先を訪問するために、クルマで県内を回っていました。地震が起こった時刻は群馬県藤岡市のお取引先を訪問していました。


ボクが住む首都圏の町は液状化で四分の三が破壊されました。


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この交番は、地盤沈下のため大きく沈んだ上に傾き、しばらくたってから壊され、跡地はそのままになっています。

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町の中のスーパーは震災後の数日間は写真のような状況が見られました。

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うちの会社が入っているビルのローソンも、商品の供給が途絶え、しばらくはこんな状況でした。


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我が家は一ヶ月ほど、トイレ、水、ガスが使えず、近くの公園に設置された仮設トイレにお世話になりました。


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皮肉なことに、震災発生の週に発売された、2011年3月14日号の「日経ビジネス」には、原発の広告がたくさんでていました。

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(東京電力のプルサーマル広告)

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(東芝)

昨年は、石巻に一度、福島に2度伺いしました。石巻の日和山から見た風景です。


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今年も東北の知り合いの方たちを訪問したいと思っています。

この一年間のことを、今日くらいはゆっくりと振り返りたいです。

女川原発を「救った眼力」

3月7日の東京新聞は、女川原発が福島第一原発とは対照的に大事故に至らなかった理由の一つとして、元副社長らによる慎重な設計があったという記事を載せています。原発関係者の記事は、原発村住人たちがどれだけ酷いかという記事が多い中で、このようなしっかりした考えを持った人がいたという記事を読むと、新鮮に感じました。

記事によると、東北で生まれ育った東北電力の副社長だった平井弥之助さんは、一号機建設時、強行に「高さ15メートル」を主張。そのおかげで、昨年の震災時、女川原発は大事故を免れたという話です。1986年にお亡くなりになられているようですが、人の評価は死ぬまで定まらないどころか、死後、何年も経ってあらためて再評価されるといういい例ではないかと思いました。

後輩の方(といっても、現在82歳の元東北電力社員)によると、平井さんは常々、「法律は尊重する。だが、技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる」とおっしゃっていたそうです。

この記事の最後には、こんなコメントがあります。
「設計をすべて米国企業に委ね、『想定外』の津波対策を怠った福島第一と女川の違いは、東北の津波を甘く見なかった先人の眼力の差だった」

与えられた環境と歴史的位置をふまえ、自分の頭でしっかり考える人だけがいい仕事をすることができるのだと思います。

追記
今回、初めて平井さんの存在を知り、ウェブ等でこの方に関する文献がないか、調べてみましたがまとまった情報が見つかりません。ひとつ、平井さんに関する「逸話」のようなものを載せている、元建設省の方の文章を見つけました。(→HP)その文章を読むと、平井さんが持っていた「スピリット」や「生き様」をかいま見る思いがしました。

以下、そのHPからの引用です:

東北電力に平井弥之助と言う副社長で水力屋の怪物が居た。話によると、平井弥之助氏が、女川原発設計当時、津波の高さを考え、反対を押し切って海水面より14.8m以上に設置位置を変更させたという。事実、津波発生時、避難民の待避場所として使用される程のレベルであつた訳だ。平井氏はまた、また液状化等と言う考えが普及していなかった時代に火力発電所の基礎設計に、その対策として、周りの地下数十mの深さに四角形の壁を設け、後に起きた大地震に耐えたと言う話も窺ったことがある。ついでに私にとって平井氏に忘れられない話がある。私が水力課長の頃、電力を主体とする総合開発ダム計画(ダム高さ113m、出力75MW)を平井氏に持ちかけたことがある。そのとき平井氏は「国と一緒に仕事をして損することがあっても得する事はない」と言って断られた。私はそのために、企画庁を中心にして関係各省間で総合開発の費用負担の方法を政令で決めたのであるから、そんな心配はないと説得したが、納得をえられなかつたことがある。結局これは建設省によって建設された。平井氏は私に言わしめれば、企業人として全て総ての責任を守ると言う一徹さに尊敬に値する電力奇人のひとりである。今にして思うと、最近の八ん場ダムや川辺川ダムの経緯ように”完成時期”と”工事費の増額”に無関心な国の仕事に事業家としての責任感が追い付いて行けなかったのだろうと推測する。 
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民主主義を自分たちのものにすることは今日からでも始められる。

知人たちとの間で、日本の民主主義はホンモノではないという話がよくでる。日本の民主主義は、敗戦によって、アメリカから都合良く与えられたもので、日本人が自分たちで勝ち取ったものではない、と。だから日本にはまだ民主主義が根付いていないという。

社会的に上の立場にある人たちも結構そう思っている人たちが多いように思う。政界、財界、官界でも。特に数年海外で生活したことのある人たちの多くはそう思っているのではないか?

民主主義の前提として、多様な意見を作り出していく土壌、多様な意見に耳を傾ける寛容性が必要だけど、日本はそのどちらもいま一つかもしれない。

それに日本ではホンネで議論することが難しい。どこの国にも、ホンネとタテマエはあるから、ホンネの議論は難しいのだけど、日本の場合、議論してもいい枠がかなり狭いように思う。戦後しばらくはいろいろ議論もあったように見えるけど、80年以降は現状満足、バブル崩壊後は現状維持にきゅうきゅうで、異論を聞く余裕がなくなっている。

企業だってそうだ。80年代、日本企業が調子良かった頃、こんなお説教をアメリカにしていたのを覚えている?「アメリカ企業は四半期ごとの短期的利益ばかり追い求めているからだめなんだ。われわれ日本企業は長期的な視野に立って経営しているから成功しているんだ」って。でも今では目先のことばかりでヘトヘトなものだから、多様な意見に耳を傾ける余裕がなくなっている。家電なんて最たるものかもしれない。

そして政治はアメリカに抑えられ、多くの官僚たちもアメリカ留学して優等生ぶりを発揮してきた。世の中、優等生ばかりじゃ面白くない。

ちょっと違う意見を言うと、「輪を乱す」「扱いが面倒な奴」「どうせ変わらないよ」ということになる。マスコミの人たちと話していても、はっきりした論調を繰り広げるのが、なかなか難しい時代だと言う。自分が気に入らない意見に対して、クレームをしてくる視聴者や読者がいる。テレビ番組の場合には、局にクレームを言うだけでなく、その番組のスポンサーのところにまでクレームやいやがらせをしてくる。

ほとんど見ないけど、田原総一郎の「朝までテレビ」とか、ビートたけしの「TVタックル」って、滅茶苦茶な議論が多いかもしれないけど、議論の枠を狭めない役割は少しくらい果たしているかもしれない。

ある経済紙の人から聞いた話だけど、たとえばライブドアに同情的な記事には、大企業の団体あるいは経営者から「苦言」があったというから、一体、どうなっているのかと思う。クレーム入れるのは、個人や特定の団体だけでないということか?

「和して同ぜず」というのは本当に難しい。卒業した一橋大学のOB会は、「如水会」という名前だけど、この水の如しという言葉が大好きだ。人と人との付き合い、交わりは、水のごとくありたい。あまり濃すぎず、タンタン(!)としているのが好き。(「本当の友達」と言える知り合いって、一体、何人いるだろうか?)

議論するにも、あまりにも近すぎるところで議論するのは、ちょっと難しい。それなりの距離をもって議論した方がいい。やっぱり国が狭いのは、だめだなあ。君とは意見があまり合わないようだから、ボクはちょっと離れたところで生きていくよ、ってわけにいかないから。

タイトルの「民主主義を自分たちのものにすることは今日からでも始められる」。敗戦でもらった民主主義かもしれないけど、大切に、自分たちのものにする努力は続けていきたい。親からもらった財産だからって、捨てる馬鹿はいないからね。たとえ自分が発明したものでなかったとしても、たとえ自分が創業者ではなく2代目であったとしても、引き継いだ会社は大切にしていきたい。2代目だということに引け目なんて感じているヒマはない。(ボクは2代目じゃないけど、2代目、3代目の知人はたくさん知っている。なかには11代目、14代目なんて人もいる)

If ではなく、When。

今日の朝日新聞朝刊一面に、「日本国債急落シナリオ_三菱UFJ銀が対応策」という見出しの記事が出ていた。一体いつから日本国債のバブル崩壊が言われてきただろうか。この間、特に海外のファンドなどで、日本国債の下落にかけて大損を出してきた投資家も多いのだけど。

朝日新聞だけでなく、日経新聞なども、しばしば国債バブル破裂の記事を載せているけども、直近では数日前に、海外ヘッジファンドの運営者による国債下落予想のインタビュー記事を出している。(→日本国債バブル18ヶ月以内に崩壊する

不合理なことは長続きしない。そんなことは1980年代の不動産バブルから十分学んだはずだと思っていたけども、いまになってもまだ大丈夫だなんていう「不誠実」な人たちがいることに驚く。国内の貯蓄で対応できるなんて時代も、あと数年で終わりが見えてくるだろうに。

決してペシミストでありたいわけではなく、合理主義者でありたいと思う。それは理に合わないことは長続きしないということを信じているという意味での合理主義者。売り上げ10億円で利益がほとんど出ていないような会社が、20億も、30億も借入をしていて、どうして継続して存続できるのか、教えてほしい。金利がゼロに近い低さであろうと、決してゼロではなく、肝心の売り上げさえも減ってきていて、人件費、福利厚生費は上がるばかりの企業が倒産するのは時間の問題。国だからといって、手品でもあるというのか?

きっとハードランディングをしない限りは、日本の制度は大きくは変わらないだろう。社会保障制度を大きく切り詰めない限り、消費税をいくら10%にしようと、財政の赤字構造は変わらない。

これまで日本売りをしかけて、さんざん失敗してきた海外投資家に加わって、日本の投資家さえも、日本売りをしかけるのではないだろうか。負け戦だとわかっていても、国内で反対することはできなかったこの前の戦争と違って、チャンスと見れば、きっと国内投資家だって日本売りで稼ごうとするだろう。

If ではなく、Whenという段階なのに、政治家たちはなんてレベルの低い言い争いを国会のなかで行っているのだろうか。われわれ国民が払った税金を使いながら。

社会保障制度を変えようとしない「改革」なんてものは、一切信じない。そんな議論はすべてモルヒネみたいなもので、現実逃避にすぎないのだから。

日本を変える方法

年末、年始に帰国した大学のゼミの友人と食事をした時の会話です。彼は財閥系の商社に卒業以来ずっと勤めていて、ヨーロッパやアフリカでの勤務が長く、現在は資源豊富な旧ソ連邦の某国に単身赴任しています。ゼミの同窓のなかで、卒業以来付き合いがずっと続いている数名の一人です。

お互い近況報告をしたあと、「ゆでガエルになってしまっている日本を変える方法があるだろうか」という話になり、サラリーマンの源泉徴収を止めることだということで一致。

この源泉徴収という制度ほど、日本人の意識を麻痺させている制度はないのではないかと思います。(パチンコなどの麻薬的ギャンブル同様に!)。僕自身も含め、経営者であろうと、サラリーマンであろうと、会社からもらっている給与所得は、われわれの手元に届く(つまり銀行口座に振り込まれる)時には、すでに所得税、地方税、年金などがさっ引かれています。

10万円から3万円の税金を自分が払い込む場合と、10万円から3万円を差し引いた7万円を受け取る場合と、残念ながら税金に対する意識はまったく異なってきます。多くの人は、自分が3万円の税金を払っているということを、ほとんど意識していないのではないか?

源泉徴収は会社にとっても、負担が大きい作業です。これは本来税務署がやるべき仕事なのではないかと思いますが、専業主婦の家事作業同様、たいして評価されておらず、「やるのが当然でしょう」と思われているような気がします。うちの会社のような中小企業にとって、決して楽な作業ではありません。

いま、政府は一生懸命増税路線をまっしぐらに走っていこうとしています。僕も決して増税の必要性を認めないわけではないのですが、これまでのやり方を変えないまま、増税というのには納得しません。僕は、「個人、企業の自助自立。小さい政府。」を基本方針としています。そんな僕からすると、いまの政府の動きにはまったく賛成できません。

1過去の政策の失敗の検証、反省はないのか?誰も責任をとらないのか?
2マニフェストの実行はどうなったのか?
3増税の前に選挙で民意をつかめ。選挙で選ばれたわけでもない内閣には勝手に増税する権利はない。
4底に穴があいているバケツをそのままにしたままでは、水(カネ)はいくらあっても足りない。まずバケツの底(制度)を直してくれ。

こう見えても、結構愛国心が強い方だと思っています。日本が好きなので、一部に見られるような海外(たとえばシンガポール)に移住しようなんて気はいまのところありません(シンガポールの政府はすごいと思うけど、シンガポールみたいな気候の国には長くは住みたくない)。でももっといい政治を求めています。

まず税金をどのくらい払っているのか、理解すること。源泉徴収の目くらましに簡単にひっかからないこと。源泉徴収の制度がなくなることは革命的なことなので、百年単位で考えないと起こりえないと思っていますが、自分がどれだけ税金を払っているのか常に意識することだけは忘れたくないです。

集団による匿名の独裁。

2年前、八ツ場ダム現場を、我が家のクロイヌたちといっしょに見に行ったことがあります。このダムの建設が進むのかどうか、関心を持って見ています。民主党には、せめて八ツ場ダムに関する公約くらい守ってもらわないと、一体、なんのための政権交代だったのかと思っています。

先日の東京新聞に、八ツ場ダムの建設の是非について国土交通省関東地方整備局が住民から公募したパブリックコメントで、寄せられた意見の96%にあたる5739件が、「全く同じ文言で、同じ体裁の賛成意見だった」という記事がでています。記事は、ダム建設事業に参画したい埼玉県の意向が見え隠れするとしています。実際には、利根川水系の水は余っていて、これからの人口減を考えると、水需要は減少するだろうと予測されているのに。

もともと八ツ場ダムを作る話が何十年も前にでてきたときには、正当な考えから始まったプロジェクトかもしれませんが、今となっては、本当に必要なのかどうか、まったくわかりません。政治家も役人も、税金を使うことに関してまったく責任を取る気はないようで、自分たちのメンツと目先の票のことを最優先させているように見えます。もちろん、ダム建設がもたらすメリットは決してゼロではないでしょう(建設業者だって仕事は必要だ)。でもそれらメリットだけでなく、費用や自然に与える影響を考慮しているのか。そして出ていくおカネが自分たちのものであれば同じ「投資」の意思決定をするのか。彼らがそんなことを、「真剣に」考えているのかどうか、非常に疑問です。

ウォールストリートでよく使われる言葉。Other People's Money (OPM)。「他人のカネ」。「損をだすときは、OPMを使うべし」。税金というのは、政治家や役人にとってはまさにOPM。

すべて、将来世代が負担すればいいということ。

この前にあった大阪市長選挙で当選した橋下亨の政治手法に関して、「独裁者」の危険性を感じるという声があります。選挙結果を受け、「大阪市役所の職員たちは、選挙で示された民意を尊重すること。それが嫌なら、去って欲しい」という趣旨の発言などが、「独裁的」だということらしいですが、そのような趣旨のことは、企業やスポーツチームなど、成功している多くの組織のトップは、日頃、口にしていないでしょうか?文字通り去れというのでは決してなく、いろいろと議論を尽くしたあとには、トップの意思決定に従うことという意味で。

ボク自身は、橋下氏に関しては、今のところ好意的に見ています。「いいひとで、やさしいけども、なにもできない、やらない」という人たちが組織の上に多すぎる今の日本の閉そく感を破っていくには、ある程度の剛腕も時には必要になるだろうから。また、彼個人が表で目立ちますが、彼にはかなりのブレーンがいるのではないかと想像します。そのブレーンたちをうまく活用できているのではないか?

ボクには役所や電力会社のものごとの進め方も「独裁」に見えます。顔が見えるひとりの人間の「独裁」か、集団による匿名の「独裁」かの違いはありますが。

「個の自立」と「国の自立」

「個の自立」と「国の自立」はどのように影響し合っているのだろうか。時代にもよるだろうけども、今の日本ではどちらの自立も確かなものかどうか、実に怪しい。

以下のような記事を読みながら、日本と、日本人の自立は、どこから始めればいいのか、考えてしまった。


 「国立医科大学に勤務している間に、文部科学省の意向によって、いろいろな教育改革がなされてきた。OSCE、CBT、PBLチュートリアルといった聞き慣れないアルファベット表示の新しい教育方式が次々と大学に導入され、少々食傷気味だ。これらの発祥地は欧州のものもあるらしいが、ほとんどが米国で盛んに行われているものだ。これらは、文科省が独自に研究して導入したというより、どうも米国のアドバイスもしくは模倣で実施された感が強い」(鈴木修、法医学者、浜松医科大理事)2011年6月11日東京新聞より。

 「日本経済は輸出によって米国債を買い支えるか、円高により輸出ができなくなるかの袋小路にある。(世界最大の対外純資産残高を持っているのに)豊かさが実感されないのも当然だ。(中略)米国債はニューヨーク連銀が保管しており、日本政府は米政府の了解がない限り売却はできない。しかし「トモダチ」ならば交渉に乗ってもらうべきだ」(松原隆一郎、東大教授)2011年6月10日東京新聞より。

 どうしてこれだけ日本はアメリカの「言いなり」にならないといけないのか、われわれ有権者はそれをよく考えた方がいい。そうでない限り、いつまでたっても日本の、あるいは日本人の自立は得られないだろうし、豊かさは感じることはできないだろう。「アメリカの傘の下で守ってもらっているから」ということが答えなら、それが本当に機能するのか、維持されているのか、これからも期待できるのか、議論した方がいい。

 上の記事の鈴木先生のご意見は以下のように続く。「私は米国とたもとを分かつ方がよいとは思わない。同盟関係は確かに必要だが、米国至上主義には反対である。また、米国にノーと言えない日本の姿勢こそ大問題なのだ。その点、同じ敗戦国であるドイツの姿勢は大いに参考にすべきだ」まったく同じ意見です。

『日本中枢の崩壊』(古賀茂明著)

経済産業省在籍のエリート官僚による、どんづまり日本への問題提起、警告、そして励まし。おすすめの一冊です。

ただし、元「エリート官僚」と言った方が正確かもしれない。というのは、「改革派官僚」の著者はここ数年霞ヶ関村で完全に村八分状況ということですから。あとがきによると、数年前に大腸がんの手術を受け、リンパに移転があるがんだったと告白されています。移転の可能性があるということなので、これからもご無事でいらっしゃることを心よりお祈りしています。

この本で初めて知ったということはそれほど多くないのですが、かなりのページにポストイットを貼りました。
その中から、心から同意、共感を覚えたご意見をご紹介します。

1「福島原発の事故処理を見て、優秀なはずの官僚がいかにそうではないか明白になった。いや、無能にさえ見えた。専門性のない官僚が、もっとも専門性を要求される分野で規制を実施している恐ろしさ」(37ページ)
2「手がかりがほとんどない状態で新しいものを創造するというのは役人がもっとも苦手とするところだ」(63ページ)
3「消費税増税だけでは財政再建はできないが、日本国民は悲しいまでに真面目だ。消費税増税はもはややむを得ないものと思い始めている」(86ページ)
4「ここで強調しておきたいのは、こんな細かな細工をほどこして国民の目を欺くことは、官僚にしかできない、ということだ」(102ページ)
5「私を霞ヶ関の『アルカイーダ』と呼んで悪評を立てようとする幹部もいると聞く」(108ページ)
6「日本の中小企業政策は、『中小企業を永遠に中小企業のままに生きながらえさせるだけの政策』になってしまっている可能性が高い。しかも、それによって強くて伸びる企業の足を引っ張っている、ということさえ懸念されるのである」(118ページ)
7「霞ヶ関の官僚の多くは、目は曇り、耳は遠くなっている。聞こえてくるのは、政府に頼って生きながらえようとするダメ企業が集まった団体の長老幹部の声や、政治家の後援者の歪んだ要請ばかりだ。政府に頼らず本当に自分の力でやっていこうとしている企業は経産省などにはやってこない」(132ページ)
8「一部に退職金を2回取るのが問題だという話もあるが、それは本質的な問題ではなくて、重要なのは、無駄な予算が山のようにできあがる、あるいは癒着がどんどんできる。これが問題だ」(138ページ)
9「結局、民主党には政治主導を行う実力がなかったということだろう。(中略)国民に幻想を振りまいた『政治主導』は最初からどこにもなかったのだ」(166ページ)
10「最大の問題は民主党が何をやりたいのか、それがはっきりと見えてこない点である。マニフェストを熟読しても、民主党が目指している国家像が伝わってこない」(177ページ)
11「連結決算は読み解くのが難解で、大蔵省にはそれがわかる人間が3人しかおらず、人材育成もたいへんだし、税の徴収も面倒になるという理由が一つ。世界中で普及していた制度なのに、なんとお粗末な話だろうか。官僚は優秀でもなんでもないことを示す典型だ」(234ページ)
12「私は、このときの橋本大臣こそ、政治主導の見本だと思っている。政策に関する緻密な検討は役人が担当する。その結果を、最終的に閣僚がリスクを取って政治判断する。その際、絶対に信頼できるスタッフを持っている。これが政治主導である」(245ページ)
13「この独禁法改正が、いまのところ私の官僚人生で、もっとも大きな仕事である」(251ページ)
14「電力会社の社長が経団連や他の経済団体の会長に推されることが多いのはなぜか。電力会社は日本最大の調達企業だからだ。電力会社は、鉄をはじめ、ありとあらゆるものをそこらじゅうから大量に買う」(259ページ)
15「法務省のキャリア組には、自分たちの天下り先を増やそうなどというよこしまな考えはない。法務省で刑法の改正などを担当するのは、司法試験に合格した検事が中心で、法務省を退官しても弁護士になる道があるので、天下り先を作る必要などないからだ」(270ページ)
16「役人の政策が浅はかになるのは、利益の誘導もさることながら、現場をほとんど知らないからだ」(295ページ)
17「真実は、『なんとか成長しないと破綻への道から抜け出せない』というところにある」(302ページ)
18「過去、各国が不況から抜け出すために打ったマクロの経済政策や、危機に陥って財政再建した歴史の教訓を見ると、増税中心で成功している国はほとんどない。政府の収入があればあるほど支出が緩くなってしまうからだ」(304ページ)
19「いまだに財務省の天下り先確保のために、JTの株を持っている」(305ページ)
20「いまほど霞ヶ関を超える目を持って、全体を動かすことのできる政治家の能力が問われているときはない」(308ページ)
21「私が考えているのは、まず、『平成の身分制度』の廃止である。いまの日本には、努力なくして手に入れた地位や身分がいっぱいある」(331ページ)
22「これまで私が挙げた政策を政府にやってもらおうと思ったら、国民のみなさんも日本人特有の金持ちを妬む気持ちを捨てなければならない」(352ページ)
23「民主党にはその場その場でもっともらしい話をする人はたくさんいた。特に弁護士出身の人たちに多い。しかし、よく聞いていると、その場しのぎの理屈が多かった。理屈が得意なだけではだめだ」(354ページ)
24「国を引っ張る政治家がまず、正直に現状を国民に訴えることが大事だ。(中略)姑息な手段を使わず、総理が堂々と、いまの財政はこれほどひどい状況になっていると、国民に真正面から訴えてほしかった。そして国民に選択肢を示し、自らの決断を問う」(357ページ)
25「東日本大震災の後、もう一つ悪いパターンが見えてきた。震災対応を理由とした大連立構想だ。連立にあたっては具体的政策の議論をまずしなければならないのに、菅総理は政局を優先し、中身のない連立を打診した。自民党も公共事業の配分に関与しようと、守旧派の長老たちが前のめりになった」(358ページ)

『平成幸福論ノート』(田中理恵子著)

 著者には、小社から出していた『オデッセイマガジン』の取材の際、昨年、お会いさせていただきました。1970年神奈川生まれの詩人・社会学者。以前、このグログでもご紹介した『黒山もこもこ、抜けたら荒野』(光文社新書)では、水無田気流という筆名で出版されていましたが、今回同じく光文社新書で出されたこの本では、田中理恵子という筆名(ご本名?)を使われています。どのような理由があるのか、お聞きしてみたいです。

 著者によると、『黒山もこもと、抜けたら荒野』と本書は、「昭和の鎮魂」を裏テーマとするということです。なぜ「昭和の鎮魂」が必要なのか?それは、現在の「内向き」「懐古趣味」「過度の安定志向」「保守化」という現象は、昭和が怨念化し、人々や組織にとりついているからで、その結果、幸福は遠ざけられているから。(第5章「昭和の鎮魂」から「つながりの再編」へ)

 昭和の時代、それは日本にとって歴史的にあまりにも幸運な時代環境を提供してくれた時代で、その時代環境は一変してしまった(日本をリードしてきたアメリカの凋落、右あがりの経済とピラミッド型の人口構成を前提とした年金や健康保険制度の崩壊、グローバル化の変化に取り残された日本の雇用制度などなど)にも関わらず、あるいはそうだからこそ、ますます、日本人は昭和の時代の夢から覚めようとしない。

 「昭和の鎮魂」という言葉が適当なのかどうか?1959年、昭和34年生まれの僕は、まさに昭和の時代の人間だなと、この本であらためて認識した次第ですが、僕たちから上の世代は、まだまだ昭和の時代を生きているのかもしれません。昭和の時代に区切りを付け、新しい現実の中で、新しい目標を見つけ、平成の時代にあった幸福論を作っていくことを、「昭和の鎮魂」というのであれば、まさに「昭和の鎮魂」は必要とされている作業でしょう。

 このような大きなテーマを新書で論ずるということで、浅くなりがちというところはありますが、著者のセンスやスピード感ある言葉の使い方、断定の仕方が好きです。もし機会があれば、僕のやっているポッドキャスティング「アイデアエクスチェンジ」に出ていただきたいくらいです。

『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健著)

本の帯にはこう書かれています:「韓国にできて、なぜ日本はできないのか!?政界、官界、マスコミ。パチンコ問題に日本の病理がすべて集約されている」。アメリカの麻薬問題に匹敵するほどの社会問題であるにもかかわらず、政治家も、マスコミも見て見ぬ振りをしている日本の社会問題。
「(大麻が)依存症になるから危険だと司法当局は主張しているけど、ほとんどこじつけだね。そんなこと言ったらパチンコのほうがよほど危険だ」(村上春樹『IQ84』)この本の中で紹介されている、村上春樹の小説の一節。
地方に出張したとき、たまにホテルのテレビをつけてみます。地方の民放にどれだけパチンコのメーカーやホールのCMがでていることか!タバコのテレビCMがだめで、パチンコのCMはどうしてOKなのか?