2025年を振り返る(2)

今年も円安が続いた。数日前に日銀が0.25%の利上げを発表したが円安を続いている。利上げをめぐっては大騒ぎをしているけども、他の主要経済とくらべても日本の実質金利の低さは際立っている。

先日、経団連が主催した経済セミナーで、高市政権の経済ブレーンと言われている3名のエコノミストのプレゼンとパネルディスカッションを聴く機会があった。2時間ほどの時間のなかで為替に関する議論はほとんどされなかった。「責任ある積極財政」がいかに正当なものであるかという話ばかり。ステージ上の3名は所属する組織は違えど、「同じ穴のムジナ」と言っては失礼だが、現政権の経済政策のアドバイザーと言われている人たちだ。

彼らから為替の話がほとんどなかったことはどう理解すればいいのか?彼らは世の中で一定の評価がある人たちであり、経済政策が国内だけで完結しているわけではなく、国際経済の中で日本経済があること、円安がいまの物価高の最大要因のひとつであることをよくわかっている人たちだ。そして現政権にとって物価高対策は優先事項の一つのはずだ。

いまのような状況が続く限り、来年以降も円安は続くだろう。円安が加速し、止められなくなるかもしれない。あるいはヘッジファンドがさらに円安を加速させるような動きを強めることで一ドル200円というような水準にさえ近づくことが来年はあるのかもしれない。

日本経済の停滞はもう30年になろうとしている。これまでさんざん財政政策、金融政策を繰り出してみても、根本的な経済の改善にはつながっていない。日本株が4万円、5万円と上がってきたのは、政府の経済政策のおかげではなく、個別企業の努力であったり、いわゆるコーポレート・ガバナンスや東証の改革の成果によるのではないかと思うのだが、どうだろうか。

アベノミクスからはじまりいまの高市政権の経済政策を好意的に見ている人たちも、海外旅行に行くだろう。海外の物価が日本とは比較にならないほど高く、円が現地通貨に対して悲しいほど弱いことを体験してどう考えるのだろうか。アベノミクスがいまのような円安を招いた原因だとは考えないのだろうか。

ぼくが初めてアメリカの高校に留学した1976年は一ドルあたり290円から300円前後。その次にアメリカに留学した1985年から1987年は240円前後から145円前後と、プラザ合意を経て大きく円高に動いた時期だった。

最高値だったときには一ドル78円前後まで上がった円の価値はいまその半分になった。

来年も引き続き円安がつづくのだろうか。

2025年を振り返る(1)

今年もあと2週間ほどで終わる。
今月の誕生日で66歳になった。ゾロ目の齢。77歳までは生きていたいなあ。88歳まで生きられるとラッキーだ。99歳まで生きていたら日本がどのくらい落ち込んでいるのかを見ないといけないのかなあ。それは辛いことだ。

今年は親しかった先輩経営者が2名お亡くなりになった。お一人は10月に、もうお一人はほんの数日前に。大学の同級生だった友人がひとり8月に亡くなった。

10月にお亡くなりになった佐藤さんのご逝去はとてもショックだった。お通夜、告別式に札幌まで飛んでいった。お顔を拝見したとき、数か月の闘病生活がどれだけたいへんなものだったかを想った。佐藤さんとは東京ドームで、札幌ドームで、そしてエスコンフィールドで、いっしょに野球観戦をした。今年だけでも、カブスとドジャースの試合から始まって、東京ドームで2試合、エスコンで1試合ごいっしょした。この10年ほどの間、どれだけ佐藤さんと楽しい時間を過ごすことができたことか。思えば、佐藤さんとの思い出は東京と札幌だけじゃない。ニセコにご案内いただいたこともあるし、軽井沢でも数回お会いした。お会いした時には、ビジネスのこと、日本のこと、お互いのプライベートのことをよく話したものだった。ぼくよりも7歳ほどの先輩だったけど、対等の友人としておつきあいいただいた。

野球だけでなくサッカー観戦もごいっしょしたものだった。国立で、柏で、札幌で、日本代表の試合、コンサドーレとレイソルの試合をごいっしょに観戦した。

スポーツ観戦のことばかり書いたけど、ビジネスでもお世話になった。
最後にお会いしたのは今年6月。佐藤さんの会社のお客さん向けにオンラインで当社のビジネスをご紹介する機会をいただき1時間ほど講演をさせていただいた。佐藤さんもぼくの会社に来てくださって、ぼくが話をしている間、同じテーブルでじっと話をお聞きになられた後、10分ほど、感想も含めて締めのお話をされた。

その月の終わりに、最後にお会いした日からほんの2週間ほどあと、急に倒れたということをお通夜の席で秘書の方からお聞きした。入院されていた間、秘書の方からは出張中だということしか知らせていただけず、佐藤さんの携帯にメールや電話をしても、だれかほかの人が書いたとしか思えないそっけない返事がたまにあるくらいで、なにかがおかしいなと思った。そして10月なかば、お亡くなりになられたという知らせが秘書の方からあって、ぼくは号泣してしまった。

佐藤さんとエスコンにもう行くことができないと思うとほんとうにさびしい。佐藤さんはバックネット裏の最高にいいエリアにシーズンシートをお持ちだったので、そこで観戦する試合は最高の体験だった。でも最高の体験になったのは、佐藤さんとご一緒だったからで、同じ席で観戦することができたとしても、同じ感動や気持ちの広がりはえられないだろうと思う。

佐藤さんのご冥福をこころからお祈りしている。

2025年の最終月がきた

とうとう12月にはいった。2025年も今月で終わりだ。
時間がたつのが速い。欧米の元気な年配者は「年齢はたんなる数字だ!」といきがる人がいるけども、年齢は個人差はあるとは言えはやり身体の衰えを示すんだよね。

この数週間、Geminiと毎日対話している。オーディオにつぃてのアドバイスをもらっているのだけど、ちょっとしたアドバイスが役に立つ。コンシェルジュという役割があるけども、GeminiなどのAIは生活のコンシェルジュとして使えるかと思う。一部情報は不正確であったり、こちらの日本語を正確に理解しないことがあって、こういうことですよ、と注意することもあったりするので、利用するにあたっては気をつけないといけないこともたまにある。
情報の客観性、正確性については気になるところ。特に客観性。Google検索代わりにGeminiを使っていると、いつのまにかスポンサー企業に有利に情報が変えられていたなんてことにならないように。
来年はどんな年になるだろうか? 今月で66歳。歳を取るのはいやだなあ。

知らない人と議論すること

小学校から高校卒業するまですごした町が、東京で行う「友の会」という昼食会に参加した。11時からスタートし2時までのイベント。昨年も参加。
いろいろな地方自治体は同じようなイベントを大都市圏で行っているのではないかと想像する。
思ったことを何点かメモしておきたい。

1 票のために参加している政治家、特に国会議員(政治家本人は出席しない。「公務多忙」だそうで秘書がいやいやでている)。かれらの出席は意味なし。
2 出席者にはいろいろな仕事をしていたり、それなりの地位にある人たちがいるのに、かれらの体験や出身地への提案を聴く機会が確保されていないのがもったいない。
3 こういうイベントの目的は何か?懇親会?いなかの関係者の東京めぐり?
4 町の関係者たちがひとつのテーブルに集まっている。もったいないなと思う。町会議員や役場の職員たちは、バラバラにすわって普段会えない人たちと同じテーブルに座って話をすべき。

3連休のなか日、せっかく時間をあけて参加しているのに残念だと思った。
知らない人たちと同じテーブルになって話をする、議論をすることに、慣れていない人が多い。
せっかくの出会いを自分の成長につなげ、所属する組織にとってすこしでも役立てることができる情報やアイデアを見つけることにつなげていくこと。

いちばんの取引先との関係

いちばんリスクがあると思っているのなら、その相手がいちばんの取引先になっている状態を早急に解消しなくちゃ。政治と経済をわけて考えましょうなんていうのは、都合のいい話だ。
取引をすること、取引ができることは、「だれにも邪魔されない権利」ではないのだから。
お互いの立場のちがいは言わないでもわかっていること。それをマジな顔して口にするから大ごとになる。あいまいにしておく方がいいことはたくさんある。勇ましいことを口にして、それで留飲をさげる人たちが支持者に多いのは問題だ。嫌いでもいちばんの取引先とはけんかしないのがいい。けんかをするのなら覚悟をきめ、国民にきちんと説明をし、多数のなっとくを得てから行ってほしい。国のリーダーが個人の「信念」で発言することの危うさを感じる。

65→66

先月は「無言」で終わってしまった!
今月ももう半分終わってしまい、毎日忙しい。アンナが返ってくると彼女の散歩で時間が取られる。でもこれが飼い主の責任だから、果たさないわけにはいかない。
来月で66歳になる。Age is just a number!と元気に口にする外人もいるけど、やはりAge is not just a number!だ。Age is heavy, age is pain, age is sad, age is a regret.

先月はとても親しかった先輩経営者でもあり、友人でもあった方をなくした。まだ72歳だった。この時代、72歳は「若い」。あと6年でぼくも72歳になるわけだから、もう時間があまりないことを想い知らされた。
あと1年半もすると「創業30年」にもなる。
一区切りにはちょうどいい数字かもしれない。30年というのは、just a number かもしれないけども。

愛犬との生活がまた始まる

昨日、二カ月ぶりにアンナがわが家に返ってきた。夏の間、東京は黒毛のコートを着たワンコにはあまりにも厳しい暑さが続くし、海外出張も入ることもあって昨年同様、夏の間は山中湖に移動するドッグスクールでお世話いただいていたアンナを昨日連れて返ってきた。
これから来年の1月末まで「アンナ・ファースト」の毎日だ。

この頃、ようやく秋らしい天気になってきた。朝はすごしやすいところまで気温は下がってきた。雨にさえならなければ、アンナとの朝の散歩は気持ちがいいし、週になんどか連れていきたいと思っている市のドッグランもアンナにとってはいい運動になるだろう。

この前新聞で、日本は四季の国ではなく二季の国だとする意見があるというエッセイを読んだ。いまのような秋の天気はしばらく続いてほしい。今度の冬は寒さが厳しいという予想があるようだから、いくら冬が好きだとは言え、ほどほどの寒さであってほしい。

なかなく思うようにいかないのは天気とアンナのしつけだ!

秋がはじまる

けさ秋がはじまった。
長い夏だった。毎年上がっていく夏の気温。半世紀近く前初めて東京に出てきたころは35度になるようなことはあまりなかったように記憶しているけど、38度から40度近くまで上がる夏が通になってきた。

昨晩、テレビでパリーグの一位を決める最後の「天王山」ともいえる日本ハムとソフトバンクの試合が福岡であった。日ハムは2-3の逆転負けをくらい、ソフトバンクのリーグ優勝がほぼ決まった。やはりソフトバンクは強かった。ここ数年応援している日本ハム、まだまだソフトバンクには届かない。
けさ強く秋を感じることに野球が関係しているというとおかしな話かもしれないけども、昨晩の日ハムの逆転負けは力が抜けるほどがっかりすることで、それは8月24日日ハムのボールパーク・エスコンで見たソフトバンク勝利の試合の高揚感とあまりにも対照的だった。振り返ると、あの週末あったソフトバンク3連戦に勝利したときが日本ハムの今シーズンのピークだったように思う。まさに北海道の爽快な夏が与えてくれた喜びだった。

昨晩の試合から一夜明け、けさの新聞のスポーツページにはソフトバンクが優勝に大きく近づいたという記事がでていた。今シーズンも最終コーナーに入り、まさに秋になったということを実感した朝なのだ。

さらば、8月

海外出張から帰ってきて、忙しい毎日を送っているうちにこのブログから遠ざかってしまった。
海外出張中は家でめんどうを見切れないのと、東京の夏があまりにも暑いため、愛犬を山中湖に移動するドッグスクールで預かってもらっている。昨日、アンナに会うために山中湖の訓練士さんを訪問。アンナの猛烈な歓迎を受けた。アンナのペロペロでこちらの顔や首筋はべっとり!それをよろこんで受けているとずっとアンナのディープキスが続いた。

一年を通しての山中湖の天気は知らないないけども、夏の山中湖はアンナにとって過ごしやすい場所だ。訓練士さんと話してアンナは来月23日まで預かっていただくことになった。それまでの間に、京都、熊本にそれぞれ一泊で出張することになっているし、追加であと一か所増えるかもしれない。

先週末は、札幌に出かけた。24日日曜日はエスコンフィールドで日ハム対ソフトバンクの「天王山」3連戦の最終戦を観戦。千歳からレンタカーして北広島のエスコンまで1時間近くかかった。エスコンはいつきてもハッピーな気分にしてくれる。日本ハムは日本の野球場の新しいスタンダードを作った。これからできる野球場は、すべてエスコンと比較されるだろう。
翌25日月曜日には、札幌のお取引先の方にご案内いただいて札幌の大学2校を訪問。再会と新しい出会い。いいミーティングは終わったあとの気持ちがいい。

8月も今日、明日で終わる。9月に入ってもとうぶんの間、残暑が続くことだろう。とは言え、2025年8月が終わるのはさびしい。8月は特別な月だ。太陽の光の強さ、草木の緑や空の青さ、日照時間の長さ。夏こそ青春だ。どうして青い春が青春なのか。青い夏こそエネルギー溢れる若さにふさわしい。

世界一周から帰国

7月24日の羽田→ニューヨークを始めとして、ニューヨーク→フロリダ・オーランド、オーランド→フィラデルフィア、フィラデルフィア→パリ、パリ→羽田の世界一周。フィラデルフィアでは予定外の空港24時間滞在があったが無事に帰国できてうれしい。