日本が崩れていくのか?

日本がどうなっていくのか、多くの人が危惧しているように思います。北朝鮮がミサイル発射の実験をなんど繰り返そうが核兵器の開発に進んでいこうが、政治家は「クリシェ」(決まり文句)を繰り返すだけ。
総理就任後一年たったのに、いまだなにをやろうとしているのか明確になっていない日本のトップ。ずっと「遣唐使」(検討しますの繰り返し)と揶揄されています。
2年で結果は出るはずだと宣言して始めた超金融緩和政策を10年たっても無責任に続ける日銀総裁。就任時にはまだ若々しさを感じましたが、最近お見受けするお姿は枯れた頑迷な老人顔の印象です。(失礼な表現をお許しください)

初めてアメリカに行った1976年の夏、1ドルは290円前後でした。(過去のチャートを確認しました)。2度目にアメリカに行った1985年の夏は200円前後。(ただし秋のプラザ合意でドル高は一気に修正されます)
その後、日本の経済力の向上にともなって長期的な円高が続きました。2011年には1ドルが70円台にまで円は高くなりました。

今年前半には110円台だった円は、今週147円まで下がりました。長生きはしたいと思っていますが、生きている間に円が再び200円台に落ちていくとしたら、ほんとうに情けないことだと思っています。円が強くてこそ、われわれは留学もできたし、海外のいろいろなところに行き自分の世界を広げることができました。

「強い円は日本人のためになる」と自信をもって言い切ることができるリーダーがいません。これまでもあまりいなかった。どちらかというと円高を恐れ、「円安は輸出企業にとって円での売り上げが上がるからいいのだ」というような論調が、(いまでさえ)残っています。戦後政治を変えると口にしていた自称「保守」の政治家たちは、裏では日本から金を巻き上げる宗教団体のお先棒を担いでいました。当選しないとただの失業者になるのが政治家ですが、当選のためには反社会的行動をとってきた団体にも頭を下げる政治家は汚い表現を使うなら「政治的売春婦」とさえ呼びたくなります。

日本が貧しくなっていくことがたまらなく残念です。子ども食堂が必要な社会が残念です。


I will deliver

イギリスの新しい首相が決まりました。保守党の党首を選ぶ投票結果の発表、そのあとに続く解説番組をBBCでずっと見ています。サッチャーさん、メイさん、そして3人目の女性首相となるトラスさん。40代後半の若々しい、野心いっぱいの女性政治家。
彼女のスピーチでなんども繰り返された言葉が、I will deliver. (わたしは結果を出します)そして印象に残ったのはbold tax cut、大胆な減税を行いますという約束。
どんなリーダーになるのか、楽しみ。

フォトグラファー 小松由佳さんの生き方

毎週日曜日朝5時からEテレで放送されている「こころの時代」は気になる番組で、定期的に録画しています。直近の放送で紹介されていたフォトグラファー・小松由佳さんのお話に感動しました。世界的な登山活動を行った後、生きることの根っこを地上の生活の中に見つけようとし、困難な状況で生きる人たちの生活をレンズにとらえてきた方。
明確な口調でたんたんとお話になるけども、発言内容は生きることの本質をつかれたもの。まだお若い方だと拝見しましたが、とても立派な生き方。
シリアの遊牧民の生活を追ううちに知り合ったシリア人と結婚され、難民となったご主人と東京で生活されている。
著作もおありになるようなので拝読してみようと思います。

映画「エルヴィス」

エルヴィス・プレスリーが亡くなったのは一年の高校留学から帰国した1977年の夏だったことは覚えていたけども、その時彼が42歳だったとまでは記憶していなかった。17歳の少年にとって42歳の大人は想像ができないほど大人の存在。
いま自分が62歳になり、エルヴィスがどれだけ若くして亡くなったのかということ、スターは若くして人生で行うべき仕事をほとんど済ませていたということを想う。
今夜、映画「エルヴィス」を観てとてもいい作品だと思った。エルヴィスが革命的なアーティストだったことを実感したし、彼の歌、歌い方をあらためて聴きなおしてみたいとも思う。
エルヴィス役のオースティン・バトラーが目茶苦茶かっこよくて、エルヴィスのマネージャー役のトム・ハンクスがカネに汚い悪役で登場し、かれも年老いたなと思った。

7月末日を迎える

2022年も折り返しを過ぎました。Twitterの手軽さもあってブログを書くことが億劫になっています。Twitterの手軽さ、スピードを諜報しています。
先月には創業25周年ということもあり、朝日新聞と日経新聞にカラーの一面広告を出稿しました。かつて、日経ビジネス誌が企業の寿命は30年ということを書いていて、30年という数字が一人歩きしているようなこともありました。オデッセイコミュニケーションズが25年を迎えられたことはとてもラッキーなことだと思っています。社員、お取引先、それと商品に恵まれた結果だと思います。
創業者のぼくも数年前に還暦を迎えました。これまでお世話になったみなさんへの感謝の気持ちの上に、もっといい会社を目指していきます。社会が必要とする「知」というものを、テストの形式をとりながら、広めていくことを続けていきたいと希望しています。
日本の凋落が言われ始めてかなりの時間がたちました。なにが足りないのか、自分なりに感じるのは、「知性」「アニマル・スピリット」「グランド・デザイン(大戦略)」が日本にはない、あるいは足りていないのではないか?他人ごとではなく、まず自分のことだとここでは認めておきます。

時間の流れ

一年ぶりにブログに返ってきました。昨年6月クウ太郎が亡くなりました。17歳と半年の命でした。最後の数年は動物病院通いが続き、担当していただいた先生にはとてもお世話になりました。人間ほどではないかもしれませんが、動物たちの介護もたいへんです。時間だけでなく、金銭的にも。クウ太郎の場合は、若いころはほんとうに自己中の奴で、言うことは聴かないし、触られるのも嫌い、なんどか噛みつかれたこともありました。
おじいちゃん犬になってから、特に身体の自由がきかなくなってからはとても丸くなりました。最後の一年は毎日のようにいっしょに出社、ぼくの部屋でよたよたと歩いたり、横になったりして老犬の時間を送ったものです。おしっこやうんちの対応もしばしば。
クウ太郎がいなくなって、わが家にはもうワンコはいなくなりました。2015年8月カイ(♀の甲斐犬)がなくなり、6年後の2021年6月にクウ太郎(♂甲斐犬)がなくなりました。甲斐犬愛護会に登録されている「黒犬犬舎」は一頭も作出することなく幕を閉じました。
また犬たちとの生活を始めたいという気持ちもありますが、自分の年齢を考えたとき、最後まできちんとめんどうを見てあげられない可能性があるので躊躇してしまいます。カイとクウ太郎の思い出をかみしめているだけで気持ちは一杯!新しいワンコが心の中に入ってきたら、かれらから反対の声が聞こえてきそうなので、もう飼わないかと思います。

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写真は晩年のクウ太郎。身体を支えることもできなくなり、クッションの上に身体を預けている様子。

あっという間に足腰は萎えていく

昨日の続きになります。
昨年11月の誕生日の頃は、ゆっくりゆっくりですが、クウ太郎は家の近くの公園まで、およそ300メートルくらいあるでしょうか、歩くことができました。
いまはその半分も歩けないのではないかと思います。さらに認知症が進んでいます。この前まで左回りだったのが、いつの間にか右回りをするようになり、さらに前進をすることがとても難しくなりました。
脚がもつれるため、うまく回ることもできません。

老犬だからたっぷりと休憩の時間が必要とはいっても、寝てばかりいるとあっという間に足腰は萎え、認知症はどんどん進んでいくようです。
この悪循環からどうすれば逃れられるのか?
人間もまったく同じでしょう。父がそうでしたから。
自分も気をつけなくては。
組織も同じかもしれない。老化に至るまでの過程ではそれなりの時間的猶予はあるかもしれませんが、老化現象が顕著になったら、まさに危険水域。

老犬の試練

昨年11月の誕生日で我が家のクウ太郎も17歳。人の年齢とすると一体何歳になるのか?90歳代?それとも100歳前後?!
この1,2か月で足腰が急激に弱くなっていて、ほんの少し歩いただけで地面にへたばってしまう。そもそも立ち上がって足をしっかりと踏ん張ることさえもできなくなってきている。
老いる犬たちに待っている試練は、老いる人たちを待つ試練と同じだ。歯周病、認知症、嚥下、力が入らない足腰。寝たきりになってしまうと床ずれも起こる。
朝夕の食事を与えることも大ごとになってきている。ほんの1、2年前には威勢よく口にしていた食べ物も、ドライのドッグフードからいまでは消化器サポートの缶詰になり、注射器(シリンジ)を使って口の中奥にしぼりこんでやらないと身体に取り入れることもできなくなってきた。
毎週の病院通いも病を持つ老人と同じか。頻繁な薬や注射の接種が必要なのも同様だ。脱水症状が気づかないうちに進んでしまう。
父母の後は、クウ太郎が年をとることのたいへんさを教えてくれている。

3.11

10年前の今日のことを忘れた人はいないでしょう。ぼくは自分で運転するクルマで、社員ひとりといっしょに、群馬県の試験会場数か所を訪問した日でした。
地震発生時は、最後の訪問予定であった藤岡市のパソコンスクールを訪問する直前。自らハンドルを握った運転中でした。

この10年間にはたくさんのことがありました。それは僕だけではなく、世界中のすべての人にとってですが。
僕自身に関して言うならば、自分自身の「老い」を確実に理解するようになったこと、身近な存在だった大切な生命が一つ、またひとつと終了を迎えたこと。

「過去は振り返らず未来のみを見つめて」というわけにはいかないし、決してそれがいいとは思わない
。もちろん、過去の過ちやうまく行かなかったことをずっと悔んだり、恨んだりすることはしない。
ただ、過去の出来事や行ったことは、いまに至るまでその影響が続くことも多く、さらには未来へも投射されることがあることは頭に入れておくこと、その影響を測っておくことは、同じ間違いのわだちから抜け出すためにも役立つ。

わが家も液状化のために30センチほど傾きましたが、命や財産を失った方々とは比較にならないほど恵まれていたと思います。
震災の後、石巻や南相馬などをなんどが訪れました。ここ数年東北エリアから足が遠のいています。暖かい季節になったら久しぶりに北に向かってみたいと思います。

はみ出し者

『子どもができて考えた、ワクチンと命のこと』という本を読んでいます。著者はアメリカ人女性でエッセイストのユーラ・ビス。
彼女の文章を読むのは初めて。Financial Timesの記事で知った作家で、おもしろそうだったので調べたら、この本が町の図書館にありました。
この本は2018年に翻訳が出版されています。ワクチンや免疫のことを取り上げていますが、ちょっとした哲学書になっています。
コロナ禍のいま、とてもタイムリーな内容の本でもあります。

ご自身のアイデンティティに関する想いを書かれている箇所があり、以下のような記述がとても記憶に残りました。

「自分の属するところが見つからないことではなく、どこにも属していないことを説明する方法が見つからない(ことだ)。そのため、私はアリス・ウォーカーの詩にある『だれのお気に入りでもなく/はみ出し者であれ』を心に留めておくようにしてきた。私的エッセイは昔もいまも、はみ出し者たちが書いていることが多い。その伝統に照らせば、私は詩人でもメディアでもなく、エッセイストか市民思索家だといえるだろう」

ぼくも、はみ出し者のひとり。