防腐剤を蓄積している人間

 本日(木曜日)からシアトル。これを書いているのは、アメリカ時間で木曜日の夜です。明日(アメリカ時間の金曜日)、マイクロソフト本社でミーティングがあって、土曜日の朝の飛行機で日本に帰ります。2泊だけの出張です。かつて海外出張が大好きだった頃からは考えられない変化ですが、用事が済んだらすぐに日本に帰って、黒犬たちといっしょにいたいという気持ちです。

 今夜夕食の席で聞いた冗談のような話です。土葬される人間が、完全に土になるまでの時間が長くなっているという話を聞きました。生きている間、食品を通して防腐剤を少しずつ蓄積しているためではないかという説があるそうです。笑ってしまいました。食品の添加物の問題はずっといわれてきました。冷凍食品や加工食品は、僕らの生活には欠かせないものになっていますが、効率や便利さの追求の結果、僕らの体にはさまざまな物質が蓄積されていって、死後にまで影響を与えるようになったのでしょうか。

 

 

自分の価値観に生き方を近づける努力

御用学者の話を読んでいて、真実を追い求めるはずの先生たちも、食っていくためには魂を売らないといけないものかと思いました。ホリエモンは、「カネで買えないものはない」とうそぶいて「良識者」からの批判を浴びましたが、大学の先生たちや世の識者といわれている人たちの多くも、カネのために言いたいことを言えない状況にあるように思います。東京にカネと権力が集中している日本ですが、案外、東京というのは狭い村社会です。その中で、孤立することを恐れず自分の理想を貫くには、かなりの勇気と信念が必要です。

  カネの魔力は多くの人間を変えてしまうようです。(幸か不幸か、黒犬はあまりカネには縁がないので、変ってしまう可能性はないと、かなり自信を持って言えます。) カネを持たない恐怖も、同じように人を変えてしまいます。こちらの恐怖にはできるだけ近寄ってもらいたくないと思っています。

 自分の価値観や思想に、自分の生き方を近づけていくのは、かなり苦しいことです。それは日本だけのことではなく、どの国においても同様でしょう。(国によっては、文字通り、抹殺される恐れもあります。) だからこそ、時には、日本国内外で自分の思想や信念にできるだけ忠実に生きた人たちの書かれたものを読み返し、叱咤や励ましをもらう必要があるのかと思います。

 

メダカの集団

 日頃お世話になっているあるソフトウェアメーカーの方との夕食ででた話題です。「和して同ぜず」という言い方が日本にはあるのに、今の日本は、どうしてこうも同じでないと不安になるひとが多くなってしまったのか?いろいろと議論しても、結局みんなで仲良くやろうと言って、誰も決断やコミットメントをしようとしない。まるでメダカの集団になっているのではないか・・・

 メダカの集団は、一見仲良くやっているようで、実は付和雷同で弱々しいものたちの集まりでしかないです。特に、そんな集団に後ろから付いていったとしても、ろくな事はないというのが、僕の考えです。僕の経験では、メダカの集団の先頭なんて、たいしたことを考えていないです。集団の先頭はなにか考えているのだろう、知っているのだろうなんて思って後から付いていく後方集団のメダカたちには、いいことが待っていることなんて、あまりありません。自分で考えて行動すること。僕も日本の教育の産物として、メダカの集団の一員かもしれないので、自分で考えていくことだけは忘れないようにしたいと思っています。

750ルックスの呪縛

時々、意味もなく杓子定規に凝り固まっている話を聞くと、いやになってくることがあります。日本のビル内における明るさは、750ルックスということになっているそうです。ビルオーナーがそのようにリクエストすることが多いそうです。ビルができあがって745ルックスの明るさだったので、全部やり直しを命じられて切れそうになったと、ある照明デザイナーが言っていました。745ルックスと750ルックスの違いなんて、誰もわからないのに。

ちなみに欧米では500ルックスほどの明るさが標準になっているそうで、この差が電力消費、ひいてはエネルギー消費の差として大きなものになっているのではないかというのが、この照明デザイナーの意見でした。(日本の都市や建物の中は、隅々まで明るくしすぎているそうです。)

なぜそんなことにこだわっているの?というようなことがたくさんあります。なぜそうあるべきか、ゆっくり考えてみると、たいした意味はなかったり、些細なこだわりだったり、前任者からそう言われてきたとか、慣習でそうなっているとか、起源はわからないのだが、とにかくそうなっているので、と言うようなことが本当に多いのが日本のように思います。日本人って、あまり自分の頭で考えようとしないのかな!?

夢の大きさ

ある物理学者の「人は自らの夢の大きさによって測られる」という言葉のことをここ数日考えています。大きな夢、多くの人たちから共感を持って受け入れられる夢を持つことが、生きていくうえでの「引き綱」になってくれるように思います。人は夢なくして生きてはいけないし、生きていくには夢が必要です。その夢がどれだけ大きなものであるかどうかが、人の仕事の大きさにつながっていくのかと思います。

 今日は誕生日ですが、自分自身の夢を再確認する日です。

「同じことを繰り返してきた動物」

先月日経新聞で連載されていた野村證券元会長・田淵節也さんの「私の履歴書」。まわりの経営者仲間では思っていたほど面白くなかったという声も聞いたのですが、僕はかなり楽しませてもらいました。役所、特に大蔵省に対する批判は、野村證券の後輩たちのことを考えると、あれ以上は書けないでしょうし、ソフトバンクの孫さんをはじめとするバブル期以降の経営者に関するコメントもおもしろいと思いました。

手元に新聞がないので間違っているかもしれませんが、戦後、アメリカの庇護の元で成長してきた日本のことを、「アメリッポン」なんていう表現があることを、最終回で初めて知りました。先日夕食をした某・外資系金融出身で、今はヘッジファンド会社を経営している知人も初めて知った言葉だと言っていました。

田淵さんが書かれていたように、人間は「同じことを何度も繰り返してきた動物」かと思います。僕ら一人ひとりにとっては初めての経験であったとしても、長い人間の営みの中では、すでに何度も繰り返されてきた逸話のひとつにしか過ぎないこと。

動物との比較で言えば、人間は動物以上に手に負えないところがあります。人間は感情を持ち、嫉妬を持ち、そして正義感を持っています。嫉妬は時に逆恨みとなり、正義感は、しばしば自分勝手な正義感であり、それを強く振り回す人(あるいは国)は、まわりの人間(あるいは国)にとっては、大きな迷惑になります。動物のほうが自然の秩序の中で本能に従って生き、そして死んでいく、地球の生態系の維持という面から考えると、人間よりもずっとやさしく、謙虚な存在かもしれません。

田淵さんが最後に書かれていたもう一度行ってみたいというブラジル。実は、リオ・デ・ジャネイロは僕ももう一度行ってみたい町です。20年前、夕暮れ時のリオ・デ・ジャネイロの河口で見た風景を、いつかまた体験してみたいとずっと思っています。

外人も喜ぶJOBA

0031 オデッセイのオフィスから歩いて数分のところにあるビックカメラ。お昼休みに時々行きますが、なにも買い物なんてしなくても、さまざまな商品を見ているだけで楽しめます。

店頭で、ナショナルの乗馬フィットネス機器「JOBA」という商品のデモを行っていました。丸の内のオフィス街で働く外人も、喜んでいました。ちょっと試してみましたが、社内の福利厚生にいいかも?!

強さの源泉

「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた大投手・稲尾が先日70歳の「わかさ」でなくなりました。「バカになりきらないとできないことがある」と話しをされていたことを、新聞記事で読みました。

まわりでも、小賢しい話しが多いのですが、「バカ」になることができた人は、強くなれるのではないかと思います。不信のこの時代、逆説的ですが、「バカ」になった人の方が強くなっているのです。そういえば、「愚直」という言葉は、「おろかなほどに、まっすぐだ」と書きます。僕も、来年は、もっと「バカ」になって、愚直に仕事やサイクリングに取り組んでいきたいです。

本を読まなくなったのはなぜ?

翻訳出版に携わっている方と昼食。お話しのなかで、海外の主要先進国では、当然のように一定数が売れる本が、日本ではまったく売れないという話しをお聞きしました。これが何を意味するのか?かつて多くの日本人が持っていた、欧米の「エリート」たちと対等に話しができるようになりたい、そのためには彼らが読んでいる本を読まないといけない。そのような意欲がとても弱くなっているのではないか?この方によると、海外の方から、「一体、日本の知的水準はどうなっているのか?」と露骨に言われたこともあるとか。日本のベストセラーは、新書が中心。ほとんどが簡単に読める本ばかり。

日本って、もっと勉強しなくて、サバイブできるの?!

80年代後半から90年代はじめまでの日本でよかったことのひとつは、日本人が世界に目を向けていたことです。確かに、あまりにも浅薄なレベルの関心でした。本当にあの頃は、バカなことをみんなでやったなと思います。でも振り返ってみると、怖いもの知らずだったけど、もっと世界に関心があったことだけは確か。今のように、内向きの議論が先行するよりもよかったかなと思うことがあります。

わけのわからないことばかり

と言っても政治のことではありません。もともと、一寸先は闇なのが政界なので。

横文字言葉の省略です。CSR、CMS、CSS、CRM、CRS。これらはもともと、どのような言葉の略語なのか、正確に言える人はどのくらいいるでしょうか?なにをもってCSRというのか、CMSというのか、その言葉が使われてきた背景、歴史など、さまざまなことを理解しないまま使っているのですから、基礎はできてないし、応用も利かないのは、仕方がないのかなと思います。わけのわからないアルファベットの略語やカタカナを使うのはもうやめて、日本語に置き換えてみればいいのに!自慢じゃないけど、分からないときには、「わからないので教えてくれ」とお願いするようにしています。

分かっていないもの同士が、ポンポンと分からない言葉をやり取りしているのを見ることがしばしばあります。一体、なにが伝わっているのか、中身がすかすかの文章を読んで、驚くことが時々あります。