「真実という鏡」

今日の朝日新聞「ニュースの本棚」のコーナーに、言語学者の田中克彦先生が文章をお書きになっていた。大学時代の好きだった先生の一人。「大学と人文学の伝統」というテーマの文章。人類学の鳥居龍蔵(1870ー1953)と東洋史学の前嶋信次(1903−83)の紹介をされたあと、J.S.ミルが講演(「大学教育について」)でおこなった以下のような趣旨の警告を紹介されている。

「自分自身と自分の家族が裕福になることあるいは出世すること」を「人生最高の目的」とする人たちに大学が占領されないよう、絶えざる警戒が必要である。

そして田中先生は、以下のようなメッセージで文章を終えられている。

「今の日本の政治を担う人たちは、かつて大学生であったとしても、大学が学生に与えるべき最も大切な経験ー真実という鏡の前で自らの精神のくもりに気づくという知的・心的経験を一度として味わわなかったのであろう。だからこそ、もうからない人文学を大学から追放しようという、先人の築いた日本の伝統を破壊へと導きかねない発想が表れるのであろう。」

時として「真実という鏡」の前に立つことを必要とするのは大学生だけじゃない。

プラスの印とマイナスの印

生まれてから死ぬまで、先生、同僚、知人・友人たち、あるいは両親から、何らかの評価を受けながら生きていくのが人間だとすると、その評価にはプラスの印となるものと、マイナスの印となるものがある。

うちの会社の事業である資格試験は、合格者に認定証という印を差し上げていて、履歴書にも合格の履歴を書く事ができる。それはプラスの印となる。

ただ、生きていく上では、マイナスの印を受けてしまう事もある。

先日、半日で終わる簡単な人間ドックを受けた際に、「医者というのは一定の異常値が見つかった時には、それに病名をつけるのが商売なので、あなたのこの数値は、◯◯症と言います。でもたいしたことではないので、気にしないで下さい」と、訳の分からないことを言われた。たいしたことないのだったら、病名をつけて呼ぶなよ、と言いたくなった。これなど、勝手にマイナスの印をつけられたようなもので、これほどいい加減でなかったとしても、世の中では、「あの人は、どこどこのエリアの出身だから」とか、「ちょっと変わった性癖がある」とか、マイナスの印(あるいはマイナスのニュアンスを持つ印)をつけたがる人も多い。

プラスでも、マイナスでもないはずの血液型、本来なら中性と言える属性なども多いのだけど、そういうものにさえ、プラスであったり、マイナスであったりの印を付けたがる人もいる。

少なくとも、プラスの印を発行していくことを生業としていることに感謝したい。特に、うちの会社で運営している資格は、一定期間頑張れば、きっと合格することができる、そんな資格がほとんどのはずだから。