結果の平等、機会の平等、対等、同等

残念な話ですが、すべての会社の中で、待遇をめぐって、不満を持っている人がいます。アメリカの某・証券会社には、社員の平均年収が数千万円だという、到底信じられないようなところが出ていますが、それでも、きっと社内では不満を持っている人がいるはずです。(「自分はなぜあいつよりも評価が低いのか」という)

戦後の日本は、農地改革で地方の豪農をつぶし、企業や役所でもエリートの待遇を落としてきました(戦前の役人や大企業の重役たちの待遇は今から考えられないようなハイレベルだった)。天下りでなんども退職金を稼いでいく連中には腹が立ちますが、国際的に見たとき、日本の上級公務員たちの待遇はもっと改善したほうがいいのではないかと思います。

日本の小学校や中学校の教育が、人間の本能や現実の社会から隔離した、「結果の平等」という「セカンド・ライフ」、「虚構の世界」を作ってしまい、親も子供も、大人になり、働き始めたときに直面する現実において、心身ともに、麻痺し、あるいは崩壊してしまうようなことが多くなっているのではないかと感じます。

「結果の平等」、「機会の平等」、個人と個人、あるいは個人と会社との「対等」、「同等」ということを、もっと他の国のことも参考にしながら考えていかないと、日本は「平等」という名のもと、さらに活力がなくなっていくのではないかと危惧しています。

顔つきから始まって、親の経済力、回りの環境など、生まれたときから人間、まったく平等ではないのに、みな、同じでないといけないと思い込んでいることから来る自己憐憫や正義感が、それを主張する人たちも含めて、全体に対して、どれだけマイナスになっているのか。

世界レベルでは滅茶苦茶、不平等です。国だって資源豊かで働かなくてもいいほどお金が溢れているところもあれば、毎年のように洪水や飢饉があって、いくら働いても苦しいところもあるわけで・・・それでも、ハンディキャップを時には活用してでも、生きていかないといけないわけで、生まれたときの不平等に文句を言っても、生産的ではないです。ハンディキャップをばねにして、多くの国が頑張っているわけですし。

顔つき、体つきの違いから始まって、ひとそれぞれ興味の持ち方、感じ方も違い、それが「個性」ということでもあろうし、「不平等」ということでもあります。それぞれの違いを認めて、自分の持っているものを最適に活用していくことが一番大切だし、企業同様、個人のキャリア戦略においても大切で、その結果は必ずしも、「結果の平等」にならないということを受入れていくことも、「大人になること」だと思います。

先日、選挙のことを少し書きましたが、選挙権における一票の平等という「同等」が、いかに大変なことか、あらためて考えてみたいです。