『田中角栄』(新川敏光著)

ミネルヴァ書房が出している「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊。
田中角栄の人気は最近また高まっているという意見もあるけど、どうなんだろうか?田中角栄を懐かしく思うのは60代よりも上の人たちが多いのでは?もうすぐ60に手が届くぼくもそのひとりかもしれないけど。
この本で印象に残った話は、2、3あるのだけど、田中失脚のきっかけになった文藝春秋の記事を書いた立花隆から、田中に好意的な意見が聞かれるようになったという話がひとつ。(年をとると、立花隆も丸くなったということか?)
小学校しかでていない田中のカネを受け取ったのは、彼を軽蔑していたであろうエリート連中で、一番彼をカネづるとして利用したのは、佐藤栄作(彼の派閥)だったのではないかという話。あとに続く、竹下登も、金丸信も、田中ほどのスケールと政策を作り出す力はなかったこと。(それを言えば、そのあとに続くほとんどの政治家たちがそうだろう)

あとがきに著者が書いている以下のような文章が一番印象に残った。
 
「田中角栄というと、私がすぐ思い出すのは、仕立てのいいスーツに身を包み、下駄履きで自宅の庭に佇む姿である。(中略)その写真は、後から考えると、戦後日本を象徴するものであった。戦後日本人は、和魂洋才どころか、和魂を捨ててがむしゃらに西欧的近代化のやり直しを図った。それが曲りなりにも成功し、日本は経済大国になった。仕立てのいいスーツを着るまでになったのである。しかしいかに西欧と肩を並べたと喜んでも、出自は隠せない。日本人とは何者なのか。足元を見るとわかる。下駄履きなのである。少年の私は、それを隠したかった。しかし角栄は、隠さなかった。だから私は、恥ずかしかった。そしてそのことに思い当たった時、恥ずかしいと思った自分が恥ずかしくなった。」

ぼくも著者と同じ恥ずかしさを共有する。日本のエリートといわれる人たちの多くも、実は下駄履きではないだろうか。