民主主義を自分たちのものにすることは今日からでも始められる。

知人たちとの間で、日本の民主主義はホンモノではないという話がよくでる。日本の民主主義は、敗戦によって、アメリカから都合良く与えられたもので、日本人が自分たちで勝ち取ったものではない、と。だから日本にはまだ民主主義が根付いていないという。

社会的に上の立場にある人たちも結構そう思っている人たちが多いように思う。政界、財界、官界でも。特に数年海外で生活したことのある人たちの多くはそう思っているのではないか?

民主主義の前提として、多様な意見を作り出していく土壌、多様な意見に耳を傾ける寛容性が必要だけど、日本はそのどちらもいま一つかもしれない。

それに日本ではホンネで議論することが難しい。どこの国にも、ホンネとタテマエはあるから、ホンネの議論は難しいのだけど、日本の場合、議論してもいい枠がかなり狭いように思う。戦後しばらくはいろいろ議論もあったように見えるけど、80年以降は現状満足、バブル崩壊後は現状維持にきゅうきゅうで、異論を聞く余裕がなくなっている。

企業だってそうだ。80年代、日本企業が調子良かった頃、こんなお説教をアメリカにしていたのを覚えている?「アメリカ企業は四半期ごとの短期的利益ばかり追い求めているからだめなんだ。われわれ日本企業は長期的な視野に立って経営しているから成功しているんだ」って。でも今では目先のことばかりでヘトヘトなものだから、多様な意見に耳を傾ける余裕がなくなっている。家電なんて最たるものかもしれない。

そして政治はアメリカに抑えられ、多くの官僚たちもアメリカ留学して優等生ぶりを発揮してきた。世の中、優等生ばかりじゃ面白くない。

ちょっと違う意見を言うと、「輪を乱す」「扱いが面倒な奴」「どうせ変わらないよ」ということになる。マスコミの人たちと話していても、はっきりした論調を繰り広げるのが、なかなか難しい時代だと言う。自分が気に入らない意見に対して、クレームをしてくる視聴者や読者がいる。テレビ番組の場合には、局にクレームを言うだけでなく、その番組のスポンサーのところにまでクレームやいやがらせをしてくる。

ほとんど見ないけど、田原総一郎の「朝までテレビ」とか、ビートたけしの「TVタックル」って、滅茶苦茶な議論が多いかもしれないけど、議論の枠を狭めない役割は少しくらい果たしているかもしれない。

ある経済紙の人から聞いた話だけど、たとえばライブドアに同情的な記事には、大企業の団体あるいは経営者から「苦言」があったというから、一体、どうなっているのかと思う。クレーム入れるのは、個人や特定の団体だけでないということか?

「和して同ぜず」というのは本当に難しい。卒業した一橋大学のOB会は、「如水会」という名前だけど、この水の如しという言葉が大好きだ。人と人との付き合い、交わりは、水のごとくありたい。あまり濃すぎず、タンタン(!)としているのが好き。(「本当の友達」と言える知り合いって、一体、何人いるだろうか?)

議論するにも、あまりにも近すぎるところで議論するのは、ちょっと難しい。それなりの距離をもって議論した方がいい。やっぱり国が狭いのは、だめだなあ。君とは意見があまり合わないようだから、ボクはちょっと離れたところで生きていくよ、ってわけにいかないから。

タイトルの「民主主義を自分たちのものにすることは今日からでも始められる」。敗戦でもらった民主主義かもしれないけど、大切に、自分たちのものにする努力は続けていきたい。親からもらった財産だからって、捨てる馬鹿はいないからね。たとえ自分が発明したものでなかったとしても、たとえ自分が創業者ではなく2代目であったとしても、引き継いだ会社は大切にしていきたい。2代目だということに引け目なんて感じているヒマはない。(ボクは2代目じゃないけど、2代目、3代目の知人はたくさん知っている。なかには11代目、14代目なんて人もいる)