動物としての能力と「想定外」

金曜日(5月6日)は休みをとったので、僕にとってのGWは明日で終わり。
昨日、長野県の安曇野に私用があって訪問(安曇野のことをもっと知りたいと思っている。できればここに長期滞在してみたい)。お会いした方と安曇族の話題になって、昔の人は現代人と違ってよく歩き回ったし、われわれからは想像もできないほどの体力があったという話になった。(安曇族は北九州から、いま、安曇野と言われているエリアに来て開拓した海人たち)安曇族は1000年、2000年というような過去の存在かもしれないけど、江戸時代の松尾芭蕉だって、ものすごい歩行力だった。

現代の秀才たちは、北九州から安曇野まで船と足で移動した人間たちが持っていた「動物としての能力」が、完全に退化してしまっている。それは、秀才たちだけでなく、すべての現代人なんだけど、秀才たちの場合には特にそれが問題になる。彼らは、霞ヶ関や東電のような巨大権力組織の上に立ち、われわれ庶民の生活を左右するような意思決定をする立場にあるから。

今回の東日本大震災のような自然相手の闘いの場合を見ればよくわかる。自然と闘っていくには、予定調和の世界でいくら優秀であろうと、まったく歯が立たないことを今回ほど示しているケースはない。(アメリカと対峙するにも、日本の学校でお勉強ができる程度では張り合っていけないけども)

小さい頃から温度調節された人工空間で、答えがあるお勉強を行ってどれだけ優秀であっても、自然相手には手も足も出なかった。想定外のことが続き、自分たちが作り出した原子力という手強い相手との闘いは、いつ、どのようにして終わるのか、その結末はまったく見えてこない。

僕の勝手な意見なんだけど、正解のない問題、先生のいない状況の中で、どうやってベストと思われる解を求めていくか。それには、動物的能力を持っていないといけないのではないかと、ずっと思っている。だからエリートの人たちには、ここちよい大手町や霞ヶ関の空間だけでなく、電気も水道も通っていないような空間、野生の空間で自分を鍛えてほしいと希望している。

動物としての能力は、体力的なことの他にも、暗闇の中や出会いがしらで危機を察知する力、想像力、現場感覚などいろいろとあるはずだ。それらと、学問的な能力というか知識というか、その両者を持たないと、これからのビジネスも政治もだめなんだろうと思う。(敗戦直後の人たちは、僕らよりも、ずっとそのような力を持っていたのではないか)

「想定していませんでした」という言葉を聞くたびに、人工空間で育った日本のエリートのひ弱さを感じる。あるいはひ弱さだけでなく、知的体力のなさから来る怠惰かもしれない。東京の平和で快適な空間から一歩もでないような人たちから、安心してくれと言われても、まったく信用も信頼もできない。

 原子力に関して言えれば、それなしで本当にやっていけるのか、懐疑的に思っている。少々危険であったとしても、快適な生活は捨てがたいという意見は、そう簡単にはなくならないのではないか(すべての電力消費には「三部の理」があるようだから、どれだけ人間を堕落させるだけのビジネスや商売であったとしても、電力消費の権利はあるのだろう)。だからこそ、原発推進派の政治家や財界人たちには、「想定外」なんて言っている暇があれば、福島の現場に飛んでいって動物的な現場感覚を磨いてほしい。利権を嗅ぎ付ける感覚を磨くのと同じくらいの熱意で、お願いしたい。