再びオシム

 今朝の朝日新聞にグラーツ(オーストリア)の自宅にオシムを訪問した記者によるインタビュー記事がでていてうれしかった。オシムが日本を去ったのが今年の1月4日。元旦の天皇杯決勝ではスポンサー席から近いところにオシムがいて、ハーフタイムの懇親会場ではオシムのそばに座ったのですが、ご迷惑かと思って声をかけられませんでした。野球の野村監督と同じように、オシムはビジネスマンのボクらにインスピレーションを与えてくれる存在だと思います。
 ボクがオシムを好きな理由はいろいろとあるんだけど、ひとつはカネだけで彼が動かないこと。日本に来るときも、契約金のことはあまりとやかく言わなかったと聞いています。そして、サッカーに情熱を持ちつつも、常に冷めた目で見ていること。(「一般の人々はサッカー界に対して敬意を払い過ぎている。サッカー界で起こっていることに、もっと批判的になり、要求すべきだ。」)
 昨晩、村上龍の『無趣味のすすめ』に関連して書いた「渇望」ということにつながるのですが、オシムはこんなことを記者に言っています。「サッカーをプレーするのは難しい。(中略)成功したいなら、多くを犠牲にしなくてはならない。すべてを手にした子供が、すべてに犠牲を払うのは難しい。両親、環境に恵まれ、車やオートバイ、テレビなどすべてを手にしたのなら、サッカーをすることが何になるのだね。そういうことはサッカーとは相反するものだ。」
 もうひとつオシムに関して思うことがあります。それは、彼の存在、彼の考え方は、グローバル化する世界の中でのひとつの生き方を示していること。サッカーそのものがまさにグローバルなビジネスとなっています。成金たちがチームオーナーとなり、試合は世界で放映され、多国籍企業のスポンサーシップなしには成り立たない。そんな時代のサッカー界の中で、カネだけのためにオシムが日本に来たとは思えないし、インタビュー記事の中では、日本と今後、どんなかかわり方をするのか、という記者の質問にこんな風に答えています。
 「今もあなたと話している。6年過ごした国なのにあっさりと切れるものではない。友人、親切な人たちがいる。これは人生において意味を持つことだ。」
 カネの力はものすごく大きくて、ボクらの気持ちも生き方も変えてしまうほどだけど、でも最後に残る思い出は友人や親しい人たちと過ごす時間のように思います。どれだけグローバルな時代になったとしても。