再び、多田富雄先生のこと

 連続で多田先生の文章のことを書きます。
自宅では朝日新聞、会社では、日経、産経、Financial Timesと、ネットのこの時代においても、新聞好きです。飛行機に乗ったときには、読売をお願いしています。(あ、それから前にも書きましたが、読売の土曜日朝刊に連載している、堤清二さんの自伝は欠かさず読んでいます。近所のセブンイレブンまで歩いていって買っています。)自宅で朝日をとっているのは、惰性と言えば惰性で、別に読売でもいいのですが、なんとなく朝日を続けています。
 本題は、多田先生でした。この前、アメリカに行く飛行機の中で読売の夕刊を開くと、文化面に、多田先生の「落葉雙語」という月一回掲載される文章に出会いました。ラッキー!11月4日のエッセイは、「病院に入った『町の原理』」というタイトルでした。一部の病院は、スタバやローソンを取り入れ、病院の概念が変わってきているということです。それでも、アメリカの一部の病院のように、夜でも家族が見舞いに行けるような病院は日本にはなく、すこしでも時間を過ぎると、患者と接触することはできない。さらには、「中央の玄関を入ると、患者がひしめき合うまるで社会主義国のような寒々としたロビーだ」と書かれています。
 うちは、犬たちも元気で、両親も寝たきりになったりということはないので、まだ助かっていますが、必ず、病院通いをしないといけない日が来ることと思っています。だって、自分だって、年を取ってきているし、いつ病気になるかわからないわけですから。
 「ここを過ぎたものすべての希望を捨てよ」なんて宣言されているような病院には入りたくないです。ディズニーランドでなかったとしても、刑務所にはしてほしくないもんね。