医療分野での複雑さ

昨日は、複雑さ=complexitiesに耐えて生きていくのが、人間の宿命のようなことを書きました。

お昼に、知人と、知人が紹介してくれた、医者からIT起業家に転じた方と、3人で食事をしました。今、医療の現場は、本当にたいへんなこと、ある領域や地域では、医者の数が絶対的に不足していること、医療ミスに対する追求など、医者への風当たりが強くなり、医者のなり手が少なくなっていること、医者はプロセスの責任は取れたとしても、結果の責任は取れないことなどを聞かされました。 また、知人の話では、残薬、つまり医者から処方はされたけれども、患者が使わないでそのまま捨てられている薬は、年間8000億円(推定)にも及ぶことを聞かされました。

医療分野において、国家予算は巨大化し、信じられないほどの複雑さが展開されています。でも、その根っこには、個々人のエゴや規制から生まれた利権を守ろうとする既得権者の力が働いているはずです。 われわれの以下のような「縁起」担ぎも、医療費の高騰につながっていることを聞きました。つまり、多くの患者は、退院するとき、大安吉日に退院することを希望し、その結果として、入院日数がマクロレベルで見ると、大きく伸びている。(具体的な統計数字は聞き忘れました)

大学生の頃、まだ人間社会の営みにナイーブな夢を持っていた頃は、経済的な効率性に重きを置く議論に対して、強いアレルギーを持っていました。会社をはじめ、「経営」の重要性を肌身にしみて認識するようになってからは、医療や教育といった、とかくお金のことを持ち出すことを忌避されるような分野においてこそ、経営を議論の中心にすえないと、いけないのではないかと思うようになりました。

なぜなら、どんな組織も、あるいは善意も、経済性を無視しては継続できないからです。そして、スポーツや、医療、あるいは教育といった専門家の発言が強い分野こそ、経営のプロが必要なはずです。その中でも、もっとも経営のプロが必要なのは、実は国家のように思います。