月額200円の躊躇

 他人の気持ちが、あまりにも透けて見えてしまうことも、時には困ったことだなあと思う。会社の経営者だったら、「今日もいやいや会社に出てきました。早く一日終わらないかな。」なんてぼやいている社員の気持ちが透けて見えると堪らない気持ちになるだろう。夫婦の場合だったら、「この人と何十年も我慢してきた。別の人と結婚した方がよかったのかもしれない。」そんな相手の気持ちは気づかない方が幸せかもしれない。
 ところが日本の総理大臣の気持ちの弱さが、われわれ国民によく見えてしまう。困ったことだなあと思う。こんなことじゃ、外国からなめられるのも当然だ。
 最近で言うと、菅
総理のぐらぐら揺れる気持ちがあまりにも透けて見えてしまう。月200円の公的年金の減額(法律では物価が一定水準を下回れば減額されることが決まっている)でさえも、高齢者の選挙での反発を恐れてなかなか決められなかった。毎年一兆円ずつ増え続ける社会保障費を背景に、菅さんは今月の10日、社会保障と税制の改革は「一刻の猶予も許されない」と言ったばかりなのに。
 月額200円の減額(基礎年金の満額受給者の場合)でさえもこんなに躊躇する人に、一体、どんな改革ができるというのだろうか。
 政治家の方々は、選挙に落ちてしまうと「ただの人」。なかには借金を抱えてしまっている人もいるから、「ただの人」ではなく、「マイナスの人」になってしまう。日本の政治家をやっても、それほどお金が貯まるわけではなさそうだから、経済的に余裕のある人でないと、たいへんだろうなと思う。どうやって次の選挙に勝つか、それが多くの政治家の頭の中にあることだ。ある政治家の方から聞いたことによると、国会議員が考えること、やることの8割が次の選挙のことじゃないだろうか、って。
 僕は基本的にノンポリなので、特定の政党を応援しているわけでもない。政治も、国というひとつの組織の経営という面から考えることが多い。経営対象となる組織はできるだけ小さい方がいいと思っている(政府は小さければ小さいほどいい!)。あれもこれもと高望みしないで、シンプルに、できるだけそれぞれのメンバーに自分で体を動かしてもらった方がいい。既得権は作らない。毎年ゼロベースで考えてみる。
 オーナー企業の経営者の立場と、たとえ日本の総理とは言え、「雇われ総理」みたいな人の立場が違うのはわかる。「雇われ」の立場では、たとえ必要なことが分かっていても、反対が強い改革は難しい。きっと月額200円程度のことで躊躇する政治家には大した改革はできないだろう。
 そして国民についてはこんなことが言えると思っている。月額200円を恨んで改革に反対するようでは、きっと近い将来に、その1000倍、あるいは1万倍くらいのしっぺ返しを食らうことだろう、と。