恩師のこと、南宇和高校のこと 。その1

昨日、かつて母校(高校)をサッカーの全国大会優勝に導いた石橋先生(当時のサッカー部の監督)がいらっしゃった。現在は松山の高校で引き続き教員をされている。ボクは石橋先生から直接ご指導いただいたことはないのだけど、これまで一番お世話になった恩師のひとりであるY先生の近所に、現在お住まいになられていることもあって、Y先生のこと、そして離れてしまった南宇和高校の話になった。

南宇和高校は僕らが育った南宇和郡にただひとつある公立高校で、南宇和郡に育つとそこに進むことが当然のことだった。東京だったら、高校生どころか、小学生くらいから電車を乗り継いで片道1時間くらいの通学をこなすことは珍しくもないのだろうけど、田舎では通学のために、たとえば他の町にある学校に行くことなんて、到底考えられないことだった。町をでて外の進学校に行くなんて発想はそもそも我が家にはなかったのだ(たとえば宇和島東高校は愛媛のあの地域では一応進学校ということになっていたけど、バス通学1時間の距離)。

その南宇和高校も少子化の影響で一学年の生徒数が20年前とかの半分近くになっていると聞いて、なんともさびしい気持ちになった。石橋先生がいらっしゃらなくなって、南宇和のサッカー部はだんだん弱くなっていき、この数年、全国大会にも出てこない。東京で働いている同窓のH君と、駒沢公園であった岐阜の代表チームとの試合の応援に行ったのは何年前だったろうか。今年の愛媛代表は52年ぶりに宇和島東が出場するそうだけど。

石橋先生との昼食はとても楽しかったのだけど、田舎のことを思うと、とても複雑な気持ちになった。東京に出てきている僕ら地方出身者たちは、老いていく父母、疲弊していく地域経済のことを思うと、重い気持ちになってしまうのではないだろうか。

石橋先生から、つい最近Y先生のお母様が104歳で亡くなられたという話をお聞きしたばかりなのに、今日は早速Y先生からそのお知らせをいただいた。はがきの宛先には、「出張勝也君」とあって、「あ、先生と僕らの関係は、死ぬまで先生と生徒だよね」と思った。それは懐かしくもあり、ありがたくもあり、ずっと大切にしていかないといけない関係だなと思う。正直言うと、田舎との関係、その中には先生たちとの関係も含まれるのだけど、それを断ち切りたくって東京に出てきたはずなんだけど、今となっては、自分のルーツというか、育ててくれた「ゆりかご」は、生まれた高知の南西部や育った愛媛の南予(「なんよ」。この言葉はIMEでは出てこない!)だと、すごく感じる。