辺見庸「犬と日常と絞首刑」、それと受動喫煙について

 今朝の朝日新聞オピニオンページに寄稿されていた作家・辺見庸のエッセイ。「私は一匹の黒い犬(!)と毎日をごく静かにくらしている。」という文章から始まる、死刑制度に関するエッセイです。六段にわたるエッセイは簡単にご紹介できるようなものではありませんが、こんなアフォリズムのような文章がなかにあります。
 「世界というよりもっぱら世間にぞくする私たちは、がいして悩むことのできる悩みしか悩まない。耐えることのできる悲しみしか悲しまない。おのれの”苦悩容量”をこえる巨きな悩みや悲しみをわれわれは無意識に<なかったこと>にしてしまう傾向がある。日常はだからこそ、たとえどんな累卵の危うきにあっても、表面はいつに変わらぬなにげない日常でありうる。」そして最後の一節には、こんな文章も含まれています。
 「同居する犬が死んだら、私はたぶん、さめざめと泣くであろう。しかし明朝だれかが絞首刑に処されたのを知るにおよんでも、惱乱をつのらせることはあれ、涙を流すまではすまい。私もまた悲しむことのできる悲しみしか悲しんではいないのだ。」
 このエッセイだけで今日の朝日新聞の価値はあったかと思います。

 ちなみに、このページの下3段は、「私の視点」ということで、NPO法人日本禁煙学会理事長の作田学という方が、「受動喫煙」は、価値観ではなく人権の問題だというご意見を出されています。

 ボクがお世話になったTOEICの発案者の北岡さんは、ご自身がヘビースモーカーであったことが原因と思われるガンで、生前7回の手術を受けられたと記憶しています。お元気だった頃は、「君、死にたまうことなかれ」というファックスレターを送って、タバコの害を多くの方に説いていらっしゃいました。ボクは、喫煙者に禁煙を強制すべきだとは思っていませんが、受動喫煙は生存権という基本的人権の問題である、というこのNPO法人の代表の方のご意見には賛成です。