哲学者_五月蝿いけど必要な存在

 5月17日付けの東京新聞夕刊に、哲学者・中島義道のインタビュー記事が出ていた。彼の問題提起は、震災直後、被災者たちの忍耐力が世界から称賛され、それは素晴らしいのだが、震災に対して、「なぜ?」という問いや絶望の言葉がもっとあっていいのではないかということ。

 美談が覆う真実がたくさんあるのではないか?たとえば、学校が大嫌いな子、いじめにあっていた子もいただろうに、マスメディアではすべての子が学校や勉強や友だちが大好きだという「神話」ばかり。家族に関しても、「心温まる家族間の話」ばかりで、「健全な」家族の美談以外は取り上げられることはない。「日本は言論が自由な国とされていますが、この点ではまったく違う」としている。

 また「震災後、さまざまなイベントや行事が自粛され、それは他人にも同様の自粛を求める『他粛』の風潮になっていて、互いに自粛し合い『いい人』しか出てこない今のような言論状況は、不気味な感じさえします。」

 そして最後にこのように言っている。「今回の大震災で日本人の良い面、悪い面がすべて出たのではないか。被災者たちの品格ある穏やかな態度、全国からの励ましの声などにあらためて日本の良さを確認する一方で、日本人の『哲学的にものを見る目』はまったく育っていないように思われる」、と。

 哲学者というのは、面倒なこと、五月蝿いことを、自分にも、そして他人にも問い続けるという存在で、毎日いっしょにいるとこちらも気が滅入ってきそうだけども、社会の中でとても必要な存在だ。特に日本のように、画一的な思考、感情的な思考に社会全体が陥りがちな国においては。