『予習という病』(高木幹夫+日能研)

 著者は日本を滅ぼそうとしている病いとして、「予習病」をあげています。それは、「すでに定められたカリキュラム、学んできたことに固執し、未知の事柄を『まだやったことがない』ゆえに無視、否定する精神の傾向」としています。
 本文中に次のような記述があります。
 「なぜ大学が学生の学力低下に悲鳴を上げているかといえば、それは分数もできないからではなくて、予習というやりかたでしか学びと出会ったことがなく、しかも、向かい合った量が極端に少ないこと、質に出会えていないことによります。大学に進学したら、当然ながら制限も予定もない量にぶつかるわけです。本来の大学での学びに、これだけやっておけばいいよというような制限はありません。ある決められた範囲内での予定できる一定量にたいする予習、という構えしかもたない子たちが、量も範囲も時間も無制限の状況にぶつかったらどうなるか。」
 この大学を会社とし、学生を社員と置き換えてみてください。日本の大学が抱えている課題とまったく同じ構造の問題を、多くの日本企業は抱えているように思います。なぜなら、大学は、著者が言う「予習病」を治療することなく、学生を社会に送り出しているからです。日本の会社の多くは、言われたことしかやろうとしない、教えてもらわないとやろうとしない社員を多数抱えてしまっているように見えます。もしかして、予習病から卒業することなく、一生を終えようとしている日本人が多数になっているのでしょうか?