再び「走ることについて語るときに僕の語ること」について

村上春樹のこのエッセイ(彼はこの本のことを、ランニングという行為を軸にした一種の「メモワール」として読んでもらっていい、と言っていますが)には、村上春樹の「哲学」のようなものが含まれていて、それがこの本の魅力のひとつになっています。たとえば、こんな文章があります。

  • 真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。(中略) 健康なるものと不健康なるものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。往々にして健康を指向する人々は健康のことだけを考え、不健康を志向する人々は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。

あと10年、いや、あと5年でも、僕がサイクリングを継続することができたなら、村上春樹にならって、サイクリングという行為と自転車という道具との付き合い方を主題としたエッセイを書いてみたいと思います。