「出来ない理由を話すこと」を禁止する

ハーバードビジネススクールの先生たち、それも看板教授的存在の人たちの講演を聴いていると、プレゼンテーションが本当に上手だなと感心します。この先生たちが、自分たちでビジネスを始めたとしても、必ず成功するとは限りませんが、教室に集まった70名か、80名かの生徒たちに、ケーススタディ(今風の言葉で言えば、「仮想体験」ということになります)を通して、鍵となるポイントを考えさせ、また理解させていくということ、またビジネスに取り組もうという気にさせることにおいては、たいへん優れているなと、先週末のリユニオンにおいて、あらためて思いました。

ところで、リユニオンに参加していた、同じクラスの日本人のNさんと話していて、どうも我々日本人のホワイカラーは、仕事の生産性が低いなあ、という話題になりました。彼は某外資系企業の雇われ社長をやっているのですが、社員の人たちが、新しい提案やアイディアに対して、評論家のような意見ばかり出してくる。どうしてできないか、それを解説するような意見はでるけども、どうやって実現しようか、という姿勢を持っている人がたいへん少ない。労働時間が長い割りに、意思決定をしない、また実行がともなわない。そんな話を聞かされました。

でも、それって、彼の会社だけでなく、日本の多くの会社で見られるような現象では?会社だけでなく、行政はもちろんのこと、司法や政治も、その傾向が強く、せいぜい現状維持くらいしか考えていないような気がしますし・・・

「戦略」の一つの定義って、今いる場所を確認し、自分が行きたいところまで、どうやれば行けるのか、それを考えて、実行していくことだと思います。でも、案外、どこに行きたいのか、それがはっきりしていない人(会社)が多く、またどうやればたどり着けるのか、その案もなく、また実行力もない、ということが大半なのかもしれません。20年前、30年前から言われてきていることですが、多くの日本企業、もっと大きく言えば、日本の社会そのものが、「戦略」を持とうとしない、あるいは持っていないから、一人ひとりの日本人(それぞれの持ち場で、リーダー的な立場に立つべき人たち)が戦略を持っていない。逆に、個人が戦略を持っていないから、その集団である会社や社会は、戦略を持ち得ないということなのかもしれません。

まあ、個人が先か、社会が先か、それはどちらでもいいのですが、日本の会社や社会から、できない理由を口にするということを禁止してみる。どうやったら出来るのかを考えることを、癖にする訓練を始めてみること。そんな運動が広がっていけばいいのにと思えてしょうがないです。結局、今の学校教育の結果がこのようなことにつながっているのでしょうか?

これは僕の持論でもあるのですが、若いうち、それも高校生や大学の1、2年くらいまでの間で、1年くらい、日本から外に出てみないと、この呪縛(人生に対する評論家的姿勢)を自覚することさえもできないかと思います。自覚していない呪縛から、どうやって抜け出すことができるのか?